6月中旬。岡山県倉敷市真備町は、昨日から続いた雨が昼前にようやく収まった。曇り空から光が差し始めると、一面に広がる田園地帯に張られた水がきらきらと輝き始めた。
そのなかを兼業農家の須増国生さん(60)が乗る田植え機が悠々と進んでいく。「だんだん、腕が上がってきたかな」。水害後、父は農業の一線を退き、手伝いだった須増さんが引き継いだ。1人での苗作りは1年目は失敗。2年目は集落の仲間からアドバイスをもらい、なんとか自前の苗を植えることができた。
田んぼの端に行き着くと、手伝いに来てくれた集落仲間が苗を手渡す。「以前は妻や子どもたちも手伝ってくれていたんだけど」
3年前の西日本豪雨。1級河川の高梁川や支流が氾濫(はんらん)。複数の堤防が決壊し、流れ込んだ濁流が住宅地をのみ込んだ。町内の3割にあたる約1200ヘクタールが浸水。約5500戸が全半壊し、51人が犠牲になった。町内の人口は水害前の2018年6月末と比べ、約1割減った。
当時、父母と須増さん夫婦、3人の子どもの計7人が一緒に暮らしていた。集落を囲む堤防が相次ぎ決壊し、辺り一帯を川から流入した泥水が覆った。一家は避難できたが、田んぼ計約8千平方メートルがつかり、農機は全滅。浸水した自宅は解体し、更地になった。足が不自由だった母は体調を崩し、翌年亡くなった。須増さんはいま、自宅跡から30分ほど離れた市南部の仮設住宅で暮らす。昨年まで妻と子どもたちも一緒に暮らしていた。
「もう真備には戻りたくない」。被災直後、妻から唐突に告げられた。水害への恐怖を子どもたちも忘れられないようだった。話し合いは平行線のまま。妻と子どもたちは昨春、仮設から10キロほど離れた倉敷市中心部に引っ越していった。それから連絡はほとんど取らなくなった。60歳を前に初めての一人暮らしが始まった。
農作業は夜まで続く。帰宅し、引き戸式の玄関を開けると、真っ暗な部屋の電気をつける。手と顔を洗い、庭に干していた洗濯物を取り込んでたたみ、風呂のスイッチを入れた。リビングのテーブルには次男のプレゼントにと、出張先で買い集めた飛行機の模型が残され、ほこりをかぶりながら所狭しと並んでいた。
台所で、スーパーから買ってきた焼きそばを袋から取り出した。料理は苦手だったが、焼きそばとカレーだけは得意になった。「以前は奥さんが作ってくれたんだけどね」。ため息のような笑いが部屋に広がった。20分ほどでできあがると、静かなリビングに、ドラマと、焼きそばを口にかき込む音だけが広がる。「疲れて帰っても、話せる家族がいない。何のために働いているのか」。缶ビールをごくりと飲み干した。
記事の後半では、須増さんが故郷の未来と家族の不安を取り除くために考えたアイデアを実行に移します。また、3年前の水害発生時から須増さんを取材してきた小林一茂記者の取材後記も紹介します。
寂しさとむなしさが募り、一…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル