家族4人失った私が学生に伝えたい「幸せ」 あの言葉に救われたから

 昨秋、バレーボール女子の関西大学リーグで関西大は優勝した。

 みんなで写した優勝の記念写真。部員たちはひとさし指を立てるそろいのポーズをとり、満面の笑みを浮かべている。

 傍らで監督の岡田哲也さん(54)も笑っている。

 「みんなが喜んでいる姿を見られてすごくうれしかった」

     ◇

 「家族を殺した」

 岡田さんは罪悪感にさいなまれてきた。

 「自分も死んでしまいたい」

 そんな思いを振り払えず、生きてきた。

 1995年1月17日。26歳だった。

 兵庫県西宮市の自宅の2階で寝ていた。

 激しい揺れで目が覚めた。

 1階には、父の直之さん(当時56)と母の初江さん(同53)、滋賀から帰省していた姉の和代さん(同31)、めいの里紗さん(同1)がいた。

 「みんなも起きたかな」

 1階に向かおうとしたが、扉が動かず寝室から出られない。

 普通ではないことが起きていると思った。

 近くに住む親戚が助けに来てくれ、雨戸から外に出て、がくぜんとした。

 自分がいた木造家屋の2階が1階を押しつぶしていた。

 直之さん、初江さん、和代さん、里紗さんは下敷きになって亡くなった。

 システムエンジニアとして働く職場に復帰したのは約2カ月後。

 日常に戻ると自らを責めるようになった。

 「自分が家族を殺してしまった」と。

 職場では気丈に振る舞ったが、一人になると泣いた。

 死んでしまおうと思った。

 「死んだら自分は楽になるけど、別の誰かが同じように苦しむかもしれない」

 「自分はこの苦しみを背負わないといけない。幸せになってはいけない」

 死にたいという気持ちを抱えたまま、生きていこうと思った。

 一度は結婚もしたが、「幸せになってはいけない」という思いがぬぐえず、うまくいかなかった。

     ◇

 9年が過ぎた2004年の夏、転機が訪れた。

 地震の揺れを2度、感じた日があった。

 理由もなく涙が止まらなくなった。

 翌日の仕事中、頭がボーッとして働かなくなった。

 「病気かな」

 勤務先の医務室に行った…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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