大震災の夜、移住先の福島県田村市は停電で明かりを失った。家族5人は車の中で毛布にくるまり、朝を待った。不安で眠れずにラジオをつけた。
「街は壊滅です」。津波被害を受けた福島県沿岸部の様子を、泣きながら伝え続ける男性の声を聞いた。「私も踏ん張らねば」。
11日、あの声と10年ぶりに栃木県益子町で「再会」した。内田啓子さん(47)は震災の約4カ月前、さいたま市から福島県田村市に夫と3人の子どもと移り住んだ。移住前、夫は残業続きで週末も休めない日が多かった。1人で子育てする「ワンオペ」状態。家族で過ごす時間がほしくて移住を決めた。
夕方に帰宅する夫が3人の息子(3歳の双子、1歳)と一緒に風呂に入るのが日課になった。夜には満天の星に包まれた。しかし、新生活を震災が断ち切った。田村市は震度6弱。裏山のがけ崩れを心配して、夜は近くの商業施設の駐車場で車中泊した。
深夜。津波がのみ込んだ街の様子をラジオで伝えたのは同県南相馬市の印刷会社長川又啓蔵さん(48)。震災当日から地元のAM局「ラジオ福島」でリポートを続けた。海から約4キロ離れた印刷会社の屋上から、「1キロ先まで津波が押し寄せています」「漁船が流されています」と惨状を伝えた。川又さんはテレビ局の勤務経験があった。
内田さんはラジオの情報だけが頼りだった。放送局にはリスナーから次々と情報が寄せられた。「うちには井戸があります」「店の電気は消えているけど、ものは売っています」。内田さんは「あの時はみんなが一生懸命だった。ラジオの声に励まされ、心を奮い立たせた」。
一夜明けた朝、一家は約20キロ先にある東京電力福島第一原発の事故を恐れて内田さんの実家がある真岡市に向かった。原発が立つ沿岸部から川又さんがリポートした「街は壊滅」との言葉が頭から離れなかった。出発直後、1号機の原子炉建屋は水素爆発した。
内田さんは11日、栃木放送の番組に益子町の自宅から出演し、川又さんのインタビューを受けた。10年前の3月12日早朝の川又さんのリポートを一緒に聴いた。「電気もない中、ラジオだけを頼りに朝を迎えた方、我々が近くにいますんで頑張ってください」。涙声だった。内田さんは「人がつくったものがことごとく壊れる中、お互いを勇気づける言葉が温かく、とてもありがたい存在でした」と目を潤ませた。
原発事故を機に、なぜ自分の幸…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル