尾行緩めた、その夜に…遺体なき連続殺人、元刑事の後悔

 いまから25年前、埼玉県熊谷市などを舞台に、男女4人が次々と失踪する事件が世間を騒がせた。

 いずれも犬の繁殖販売業者の元夫婦=2009年に死刑確定=が毒殺し、跡形もなく灰にしていた「愛犬家等連続殺人事件」。陰鬱(いんうつ)でセンセーショナルな内容は、後に映画の題材にもなった。捜査を指揮した県警の元刑事・貫田晋次郎(66)が当時を語った。

 事件は1993年4月、ある男性(当時39)が熊谷市の勤め先からの帰り道にこつぜんと姿を消したところから始まった。県警は捜査主任官として貫田を行田署に派遣。貫田は、綿密な捜査手腕で当時すでに周囲から一目置かれる存在だった。

 貫田が指揮する捜査班は、男性と金銭トラブルを抱えていた犬の業者の男(同51)と元妻(同36)、親しくしていた同業者の男(同37)の計3人をマークし始め、犬の業者の店舗や自宅を見張り、尾行を展開した。

忘れられない一日

 捜査を進めるなかで、93年7月21日は貫田にとって一生忘れられない一日だ。

 捜査員はいつも通り3人の動きをマークしようとした。しかし、この日は「熊谷うちわ祭り」。大渋滞で尾行は難航していた。

 「無理な尾行はしなくていい」

 貫田はそう指示し、自身も早めに引き揚げた。

 その翌月、貫田たちは聞き込みで不穏な話を耳にする。犬の業者と付き合いのあった暴力団幹部(同51)が、その「熊谷うちわ祭り」の夜、付き人の運転手男性(同21)ともども失踪したとの内容だった。

 貫田は嫌な予感がした。

 別の聞き込み先では「暴力団幹部は資金繰りに困って逃避行した」「四国で生活している」という話もあった。貫田はそれら「生存説」の方にすがり、捜査員に行方を捜させ続けた。だが、いつまでたっても暴力団幹部は現れなかった。

 10月、胸を突き刺す新情報が入った。

 犬の業者からもうけ話を持ちかけられていた主婦(同54)が、8月に家を出たまま帰ってきていないというのだ。犬の業者と会う約束をしていたらしい。

 最初に失踪した男性、いまだ見つからない暴力団幹部と運転手、この主婦。それらに影を落とす犬の業者の存在。貫田のそばにいた古参の捜査員が言った言葉を貫田はいまも覚えている。

 「主任官、これはだめだ。みんなやられてしまっているかもしれない」

 解決どころか、悪化する事態。「思い上がりが生んだ判断の甘さだった」。貫田は尾行を一瞬でもゆるめたことで自らを責めたのだった。

「事件を手伝った」打ち明け話

 捜査に劇的な変化が起きたのは年が明け、マスコミが失踪事案を報じた94年2月以降、ある男が犬の業者の「広報担当」として突如、姿を現してからだった。

 同年6月ごろ、捜査班は重要な情報をつかむ。

 この男が、犬の業者と親しくしていた同業者の男から「失踪者の事件を手伝った」と打ち明けられた、というのだ。

 捜査班は10月、同業者の男の取り調べを開始。男は12月、4人の失踪がすべて犬の業者によるものだと明かした。灰になった遺骨や所持品が群馬の山や川に眠っているが「自分は手伝っただけだ」と言う。裏付ける証拠はなく、男が遺棄したという遺骨や所持品が本当に見つかるかどうかが焦点となった。

 貫田ら特命チーム8人が、この男の案内で群馬県片品村の宇条田峠という場所に赴いたのは94年12月13日の午後。辺りは小雪まじりの曇り空だった。ここに最初の失踪男性の遺物があるという。

 男が指す場所の雪と堆積(たいせき)した枯れ草をどかし、地表の土をかき分けたが、1時間たっても何も出ない。雪はいつしか本降りとなり、周囲は暗くなっていく。何もなければ、もう男の話を信じることはできず、捜査は振り出しに戻ってしまう。

 そろそろ潮時か――。

 そのとき「骨らしきものがあるぞ!」と声がした。同行した科捜研の技官がすぐに「焼けた人骨」と判断。さらにそっと土の表面を払うと、失踪男性の所持品と一致する腕時計のムーブメントケースなども見つかった。

 「物証だ!」

 チーム全員でその場を囲んだ。事件の解明に、突破口が開いた瞬間だった。

 95年1月、県警は最初の男性が失踪した件で、犬の業者らを死体遺棄や殺人容疑で逮捕し捜査本部を設置。資金繰りに困った犬の業者が、金銭トラブルになった相手を跡形もなく消す「遺体なき殺人」の輪郭が、少しずつ見えてきた。

 貫田には毒物についての豊富な知識があり、猛毒「硝酸ストリキニーネ」が「凶器」に使われたことも突き止めた。捜査本部はほかの失踪者に関する物証も見つけ出し、連続殺人事件の解明につなげたのだった。

消えることのない「責任」

 95年7月、犬の業者らの裁判が始まった。貫田は、自らの責任の本当の意味を、この裁判の過程で知ることになる。

 公判中の証人尋問。貫田は浦和地裁(現さいたま地裁)の証言台で捜査過程について話し、自らが指揮する間に新たな犠牲者が生まれた「責任」にも触れた。話すことで、それが果たせると思ったからだった。

 後日、地裁の廊下で遺族らが貫田に近づいてきた。「お前がちゃんと捜査をしていれば家族は死ななかった」と胸ぐらをつかまれても仕方ないと思った。

 が、そっと頭をさげられ、「ありがとうございました」と言われた。

 貫田はハッとした。もしここで遺族に糾弾され、謝ることができていたなら、それで「終わり」と考えたかもしれない。だが、そうならなかったことでかえって「謝罪も反省も、ただの自己満足。人生を変えられた遺族には何の意味もない。『責任』から逃れることは一生できない」と気づかされた。

 「自分に課すべき償いは、ひたすら被害者のための捜査に心血を注ぐことだと思った」。そう振り返る貫田。後年、この信念を後輩たちにも語り継ぐことになる。=文中敬称略(釆沢嘉高)


Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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