福岡に「屋台の神様」として語り継がれている男がいる。
故河田琢郎。旧戸畑市(現北九州市)の市議を経て、長く福岡県議を務めた。戦前の労働運動を通じて、後に社会党委員長になる浅沼稲次郎と知り合い、「一の子分」をもって任じた。「困っている人が頼ってきたら世話しなさい」。河田は後に民社党に転じるが、浅沼のそんな姿勢に共感した地方政治家だった。
屋台店主たちが河田にすがったのは1953年ごろである。敗戦後、大陸からの引き揚げ者や戦争で夫を失った女性ら生活困窮者が屋台で生計を立ててきたが、連合国軍総司令部(GHQ)は衛生面を問題視し、旧厚生省はそれを受けて49年、屋台の漸減方針を打ち出した。
店主たちは移動飲食業組合を結成。福岡市に嘆願書を出し、営業禁止の行政処分の無効を求める訴訟を起こしたものの、そのかいなく、県は55年3月末をもって屋台を全廃しようとしていた。
河田は55年3月11日の県議会で「ただ一片の停止通告でやめさせるのは酷」と指摘し、県内500の屋台を一家5人として「2500人の生命はどうなるのか」と訴えた。上京して厚生省の担当幹部に直談判し、その際に頼ったのが浅沼だった。浅沼は「けんかするなよ」と念押しし、一緒に同省に足を運んでくれた。
「しょせん自分は田舎侍。ヌ…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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