一帯に広がる空き地の先に地平線が見える。福島県浪江町の内陸部にある立野地区。住宅は所々に残っているが、道を歩く人の姿は見えない。
「あそこにも家があった。あそこにも。ここは集会所――」。仙台市から車を走らせてきた横山眞志(71)は運転席から空き地を指さし、2月上旬に同行した記者に向かって教えてくれた。
横山は1951年1月1日、立野で稲作、養蚕、林業などを営む家の長男として生まれた。60歳になるまで生家で暮らした。町農協(合併後はJAふたば)職員との兼業農家だった。
集会所のあった付近から少し山側に入り、生家のあった敷地に着いた。4年前に解体された自宅の面影を残すものはない。
突然奪われた日常 自宅跡に残した白いコンテナ
変わってしまった「ふるさと」。脳裏に浮かぶ立野での暮らしは、一生続くと思っていた。
近くの山から湧き水をタンクで集め、水道代わりに。秋には結婚して仙台に引っ越した次女が、家族を連れて稲刈りの手伝いに来てくれた。休日は孫と一緒に家のそばの坂道に寝転がり、何もせず青空を眺めるのが楽しみだった。
震災前、立野には約900人が暮らしていた。住民同士の付き合いは深く、夏は盆踊りや花火大会で盛り上がった。神楽の芸能保存会もあり、結婚や出産のたびに奉納に来てくれた。2008年に父親が亡くなった時は、葬儀に600人以上が駆けつけてくれた。
そんな暮らしは突然、奪われた。東京電力福島第一原発の事故で、住民はちりぢりに避難。横山も仙台市の次女宅に駆け込んだ。立野地区は原発から半径20キロ圏内で、一帯に避難指示が出された。その夏、仙台市内の借り上げ住宅に移った。
横山が、立野の自宅跡地に残…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル