帰りたかった浪江のふるさと 「避難先で一生を終える」決断した祖父

 一帯に広がる空き地の先に地平線が見える。福島県浪江町の内陸部にある立野地区。住宅は所々に残っているが、道を歩く人の姿は見えない。

 「あそこにも家があった。あそこにも。ここは集会所――」。仙台市から車を走らせてきた横山眞志(71)は運転席から空き地を指さし、2月上旬に同行した記者に向かって教えてくれた。

横山眞志さんの自宅跡=2022年2月9日午前10時19分、福島県浪江町、申知仁撮影

 横山は1951年1月1日、立野で稲作、養蚕、林業などを営む家の長男として生まれた。60歳になるまで生家で暮らした。町農協(合併後はJAふたば)職員との兼業農家だった。

 集会所のあった付近から少し山側に入り、生家のあった敷地に着いた。4年前に解体された自宅の面影を残すものはない。

突然奪われた日常 自宅跡に残した白いコンテナ

 変わってしまった「ふるさと」。脳裏に浮かぶ立野での暮らしは、一生続くと思っていた。

 近くの山から湧き水をタンクで集め、水道代わりに。秋には結婚して仙台に引っ越した次女が、家族を連れて稲刈りの手伝いに来てくれた。休日は孫と一緒に家のそばの坂道に寝転がり、何もせず青空を眺めるのが楽しみだった。

 震災前、立野には約900人が暮らしていた。住民同士の付き合いは深く、夏は盆踊りや花火大会で盛り上がった。神楽の芸能保存会もあり、結婚や出産のたびに奉納に来てくれた。2008年に父親が亡くなった時は、葬儀に600人以上が駆けつけてくれた。

 そんな暮らしは突然、奪われた。東京電力福島第一原発の事故で、住民はちりぢりに避難。横山も仙台市の次女宅に駆け込んだ。立野地区は原発から半径20キロ圏内で、一帯に避難指示が出された。その夏、仙台市内の借り上げ住宅に移った。

東日本大震災、そして東京電力福島第一原発事故は多くの人の人生を狂わせました。その中の一人、横山さんのふるさとへの思い、葛藤を描きます。(文中敬称略、年齢は現在)

 横山が、立野の自宅跡地に残…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

Japonologie:
Leave a Comment