被爆地広島・長崎には、政治や文化、スポーツなどの第一線で活躍する人々も数多く訪れました。核兵器廃絶を訴え続ける「原点」とも言える地で、何を考え、どんな言葉を残したのか。広島の平和記念資料館と長崎の長崎原爆資料館の「芳名録」に記されたメッセージを手がかりにたどりたいと思います。
《私自身、最初は原爆投下の正当性を信じていた。広島を忘れてはいけない。正しく記憶しておく必要がある》(2013年8月4日、広島平和記念資料館見学後の報道陣の取材から)
2013年8月4日の夕方。報道陣が待ち構える中、オリバー・ストーン監督は新幹線で広島駅に降り立った。前日、韓国での海軍基地建設反対デモに参加し、顔は真っ赤に日焼けしていた。《私はここにいた。68年前ここにいた》。マイクを向けられ、何度もこう口にした。しかしこの言葉は当初、通訳も理解できていなかった。
広島平和記念資料館では報道陣100人以上がカメラを向ける中、原爆で廃虚と化した街の写真パネルや被爆資料の解説を丹念に読み込んだ。3千~4千度の熱線を浴びた人の姿が黒く残った「人影の石」を見て、「当時の人は何が起きたことか分からず、爆弾とも分からなかっただろう」と思いをはせた。見学後、報道陣の取材にこう答えた。
《私自身、最初は原爆投下の正当性を信じていた。広島を忘れてはいけない。正しく記憶しておく必要がある》。そして、資料館の芳名録に氏名を記した。
翌日、原爆ドームなどを訪れた後、朝日新聞の単独インタビューで広島訪問の感想を問われこう答えた。《私は1945年のこの場所にいるような気がしている。いまここであの日の瞬間、爆風を感じている》
「もうひとつのアメリカ史」 制作のきっかけ
訪問の前年、アメリカン大学のピーター・カズニック教授(当時は准教授、歴史学)と共同でドキュメンタリーシリーズ「もうひとつのアメリカ史」を5年がかりで完成させた。
ドキュメンタリーは第2次世界大戦前からオバマ大統領登場までの米現代史を追ったシリーズで、原爆投下が戦争終結のために必要で、本土決戦を防ぎ人命を救ったという米国の歴史認識に疑問を投げかけるテーマなどを扱っている。
「私は保守的な家庭に生まれ育ち、保守的な考えを持つ人間だった」。広島に続いて訪れた長崎市で原水爆禁止世界大会に参加した際、約7千人の前で自身の生い立ちについて触れ、こう続けた。
《中年期にさしかかったころ、いったい自分の国は何をしているんだろうと疑問に思うようになった。イラクでアフガニスタンで、そして中南米で。ベトナム戦争後、米国が次々起こしてきた戦争が自分に押し寄せてくるのを感じ、自分は非常に軍事的な文化のただ中にいるのだと感じた》
これが「もうひとつのアメリカ史」を作るきっかけだったという。
記事後半では、朝日新聞記者の取材にオンラインで応じたオリバー・ストーン監督が、広島駅で繰り返し口にした「私はここにいた。68年前ここにいた」という言葉の真意や、「語られない歴史」の事実に向き合う姿勢の大切さについて語りました。
加害の歴史 向き合わなければならない
そして、監督が12日間の広…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル