広島の原爆投下直後に降った「黒い雨」をめぐる訴訟で、菅義偉首相が上告断念を表明したことに対して、喜びと悔しさをかみしめる気象学者がいる。現地を歩き、雨が降った場所を丹念に調べた結果が裁判所に認められるまで30年以上かかった。地道な作業の原動力は、戦時中のある後悔だった。97歳になったその学者は「住民たちとの約束はまだ果たせていない」と語る。
降雨の範囲を独自に調査 転機となった住民の声
「黒い雨を浴びた人たちの証言がやっと本当だと認められた」。気象学者の増田善信さん(97)=東京都狛江市=は26日、上告断念の知らせを受け、うれしさをにじませた。気象庁を退官後の1989年、考えられていたよりも約4倍の広さで黒い雨が降ったとする論文を発表した人物だ。降雨範囲は「増田雨域」と呼ばれ、健康被害を訴えた住民を幅広く被爆者と認めた広島地裁と広島高裁が判決の根拠の一つとした。
異常気象の研究などに携わってきた。転機が訪れたのは、退官翌年の85年だった。広島市で開かれた原水爆禁止世界大会に招かれ、核爆発と異常気象の関係について講演。従来の降雨範囲に触れたところ、会場から思わぬ声が上がった。「あの雨域に私たちは迷惑しているんです」
黒い雨の援護区域拡大を求める活動に関わる被爆者の男性だった。「あんなに激しい雨が、きれいな卵形に降ると思いますか」と問われ、何も答えられなかった。原爆投下直後の調査では黒い雨が南北に長い卵形に降ったとされ、それが国の基準になっている。だが、気象の常識では雨の範囲はいびつな形になるはず。調査のサンプルが少ないのではないか。「私が再調査をします」。その場で約束した。
言えなかった「『神風』は吹かない」 今も後悔
長年、ある後悔に苦しんできた。終戦前年の44年9月に海軍に入隊。軍の気象学校で学び、少尉として島根県内の基地に配属された。いまも鮮明に思い出すのは、45年8月に沖縄方面へ出撃していった爆撃機の姿だ。滑走路の戦闘機の前で、天気図を使って乗組員に風向きなどを伝えた。「『神風』は吹かない、その一言が言えなかった。申し訳なかった」
87年、広島県北西部の湯来…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル