引き出しの奥、母が秘めた50年超の愛 平和記念資料館が伝えること

 広島で開かれる主要7カ国首脳会議G7サミット)の初日となる19日、G7首脳はそろって広島平和記念資料館を訪問する予定だ。資料館の礎は、1人の地質学者がつくったとされている。

 その学者は、長岡省吾さん(1973年に71歳で死去)。残された資料によると、原爆投下時は県外にいたが、翌日に広島市内の勤務先に向かった。道中には折り重なった遺体が多数あった。血まみれの衣服を着た12歳くらいの女の子が焼けただれた母の背にすがり泣いている。通学の途中だったのか、中学生がかばんを握ったまま倒れていた。

 疲れて神社の石灯籠(どうろう)に座った時、針で刺されたような痛みを感じる。石の表面が溶けて針のようになっていることに気がついた。「特殊な爆弾」を疑い、周囲に笑われながらも被爆の痕跡が残る石や瓦を収集し続けた。

 広島市は55年、その大量の資料や被爆者の遺品を展示する資料館を開いた。長岡さんが初代館長に就いた。

 遺品の寄贈などが相次ぎ、今では被爆資料は約2万2千点まで増えた。

 その一つが二川幸子(ふたがわさちこ)さん(当時13)のブラウスだ。頭が良く家族の自慢だった幸子さんは原爆投下当日、学徒動員で市中心部に出て行方不明に。母親の広子さんは布団を敷いた大八車を引いて捜し歩いたが、遺骨も見つからなかった。

 夫も被爆死。残された5人の子を1人で育てた広子さん。生前、幸子さんについては家族にも一言も話さずに2000年に亡くなった。

 14年後。広子さんの遺品のタンスを整理した家族が、引き出しの奥から白い紙で包まれた品を見つけた。

 子ども用の緑色のブラウス…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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