心にしまいこんだ地獄 「僕が語らねば誰が語るねん」28年後の覚悟

【動画】再び語る決意をした理由とは

 近くで工事中の明石海峡大橋の主塔が倒れた――。そう勘違いした。早朝に襲ったのは経験したことのない揺れだった。

 三条杜夫さん(75)は1995年1月17日の阪神・淡路大震災の当時も、フリーランスで地元のテレビやラジオのリポーターをしていた。

 自身にけがはなく、神戸市垂水区の自宅は一部損壊。外に出ると、生まれ故郷の長田区の方向から黒煙が上がっているのが見えた。2日後、パンやバナナをリュックに詰め、小さな録音機とカメラを手に現場へ向かった。

 《全国で消費される靴の70%が神戸での生産だったんです。悲しいかな、今回の震災で一番大きな被害を受けたのが神戸市長田区だったんです》

 長田にたどり着くと、まだ火がくすぶっていた。靴の街・神戸の中心をなす長田の靴工場は大半が壊れ、焼けてしまった。

 《もう神戸のケミカルシューズは、あかんのではないかと言われたんですよ。ところがどっこい、神戸の根性はそんなもんじゃないと、がんばっている方がいます》

 被災地を歩き回り、一歩一歩踏みだす人々の声を集めてラジオで伝えた。3月31日の放送終了まで、500人以上に話を聞いた。

 《私はね、苦労と闘いながら立ち上がっていく方々への応援歌を送るつもりで、このリポートを続けてきました》

 だが振り返ったとき、納得いかないことが一つあった。

 震災直後、まだ煙がくすぶるがれきに向けて、消防士が放水作業を続けていた。近づくと、人が焼けたにおいがすることに気づいた。

 「ここに犠牲者のご遺体があ…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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