Re:Ron連載「ことばをほどく」第4回
10月25日の最高裁の判決で、「性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律」(「性同一性障害特例法」)におけるいわゆる不妊化要件が違憲であるとの判断が、裁判官全員一致で下された。
性同一性障害特例法は、トランスジェンダーが戸籍に記載された性別を変更する際の手続きを定めた法律だが、現在この手続きをおこなうには五つの条件を満たすことが求められている。①18歳以上であること、②婚姻をしていないこと、③未成年の子がいないこと、④生殖腺がない、または生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること⑤性器が変更後の性別の標準的な性器の形状に近似した外観になっていること、だ。「不妊化要件」と呼ばれているのは四つ目の条件であり、要するに生殖能力がある状態では戸籍上の性別を変更することはできないという内容である。不妊化要件は⑤のいわゆる「外観要件」とセットで「手術要件」と呼ばれてもいる。
戸籍上の性別変更は、「きのうまで女性/男性として普通に暮らしていたひとが、いきなり手続きをして男性/女性としての身分を手に入れる」というふうに想像されることがあるが、実態としては「戸籍以外は基本的に女性/男性としてすでに暮らしているひとが、生活実態と公的書類の記載内容の不整合による困難を解消するために記載事項を変更する」というのが基本的な状況だ。それゆえ、今回の違憲判断は多くのトランスジェンダーの人々にとって重要なものだった。
だがその一方で、これをきっかけにまたトランスジェンダーへの誤解や恐怖をあおるような言葉がSNS上で広がっている様子も目に入った。なかでも気になったのは、「特例法改正で性別変更が容易になると、誰でも『自分は女だ』と言っただけで女になれるようになる」「特例法改正で性別変更が容易になると、悪意を持った男が特例法を悪用して女の身分を獲得するようになる」といった言説だ。こうした意見はひょっとしたら一見もっともらしく思えるかもしれないが、そこでは不誠実なレトリックが利用されている。
「特例法改正で性別変更が容易になると、それを悪用する者が現れる」という文を取り上げて考えてみよう。この文からは、次のようなふたつの内容が読み取れる。
①特例法が改正されれば、性別変更が容易になる。
②性別変更が容易になれば、それを悪用する者が現れる。
①は、特例法に現在ある要件を減らしたならば性別変更は確かに容易になるので正しいように思える。②もまた、仮に誰でも気軽に書類一枚で性別を変更できるなどということになれば悪用する者が出てくると考えるひとはいるだろう。すると、「AならばB」と「BならばC」から「AならばC」を導くという論理学的にも妥当な推論によって、「特例法が改正されれば、それを悪用する者が現れる」となり、悪用を避けたければ特例法は改正されるべきではないという結論になる……というような内容が「特例法改正で性別変更が容易になると、それを悪用する者が現れる」の一文には込められているように思える。けれど、このロジックには飛躍がある。それは「容易」という言葉の意味に関わるものだ。
犬のクロは「大きい」か
「容易である」はある特徴を持った表現だ。
それはすなわち、「何かに性質を帰属しているわけではない」ということだ。どういうことか、ほかの例を挙げながら説明したい。
たとえば「三木那由他は神戸出身だ」と言った場合には、三木那由他(私)に神戸出身という性質を帰属していることになる。神戸出身であることと浜松出身であることは(出身地がひとつだと仮定すると)相反するので、「三木那由他は神戸出身だ」と「三木那由他は浜松出身だ」が両立することはない。
だが「大きい」のような語はこれとは異なる振る舞いをする。
私がクロという名の犬を飼っているとする。クロがほかの犬と比べると体が大きいとすると、私はそのことを指して「クロは大きい」と言うことができるだろう。だが、犬のなかで大きいというのに過ぎないクロは、例えば大半のゾウと比べたら小さいだろう。なので、そうしたものと比べられる文脈では「クロは小さい」と言うことができる。大きいことと小さいことは相反するが、しかし何との比較のもとであるかに応じて、同じクロを大きいとも小さいとも言うことができる。つまり、「大きい」は大きいという性質を帰属する表現ではなく、その文脈における比較対象との比較結果を述べる表現なのだ。比較対象抜きに、「クロはそれ自体として大きいか小さいか」と問うても答えは得られない。
「容易である」もまた、こうした特徴を持つ表現だ。容易に解ける大学入試問題は、大学入試としては易しいけれど、小学校のテストに比べると難しいかもしれない。同じものが、比較対象次第で易しくも難しくもなる。そして、比較対象がない状態である問題が「容易に解けるか否か」を問うても答えようがないのである。
話を特例法に戻そう。
問題は、①「特例法が改正されれば、性別変更が容易になる」、②「性別変更が容易になれば、それを悪用する者が現れる」のふたつの「容易」が同じ基準のもとでの話になっているかどうかだ。「クロは大きい」と犬のサイズが話題になっているときの「大きいと飼うのが大変」から「クロは飼うのが大変」を導くのは、妥当な推論だ。だが、「クロは大きい」とゾウやキリンのサイズと比較したうえでの「大きいと家に入らない」から「クロは家に入らない」を導くのはナンセンスだろう。要するに、「大きい」や「容易である」のような表現が含まれている場合、その比較対象が一貫していなければまともな推論にはならないのだ。だが、①「特例法が改正されれば、性別変更が容易になる」、②「性別変更が容易になれば、それを悪用する者が現れる」の場合に、これは満たされているのだろうか?
まず、①「特例法が改正されれば、性別変更が容易になる」は明らかに、現行の特例法と不妊化要件を排した特例法とを比較しての話なので、比較対象は「現行の特例法のもとで性別変更をする場合と比べて」である。②はどうだろうか?
長く、不透明な道のり
ここで、実際のところ特例法を利用した戸籍変更がどういった手続きのもとでなされるか、私自身の経験をもとに語ってみたい(もしかしたら、ひとによって、あるいは時期や地域によって私とは違う経験をしている場合もあるかもしれないが)。
まず、知らないひともたまに見かけるが、性別変更を申し立てる相手は家庭裁判所である。区役所などに紙を一枚出しておしまいという話ではなく、複数の書類をそろえて裁判所に申し立てをおこない、裁判で申し立てが理にかなっていると認められれば性別の変更がなされることになる。
提出書類として最低限必要とされるのは、①申立書、②戸籍謄本、③2人以上の精神科医による性同一性障害(性別不合)の診断書、④性別適合手術を受けた証明書、⑤婦人科や泌尿器科などで生殖腺がない(機能しない)ことや適当な外観の性器になっていることを確認して得られる診断書である。
申立書と戸籍謄本には特別な手続きはないのでいいとしよう。精神科医による診断書は、ホルモン療法や性別適合手術の際にも必要となるが、それとはまた別の書式のものが必要となる。私の場合、最初にクリニックを訪れてからホルモン療法のための診断書を得るまでに約1年間かかり、それからさらに1年ほどホルモン療法を受けつつ現在の性別での暮らしを続け、再び性別適合手術のための診断書を得て手術を受け、手術後に改めて裁判用の診断書を発行してもらった。初めの2回の診断書は費用としては数千円で済んだと記憶しているが、裁判用のものは数万円かかっている(このあたりはクリニックによって大きく異なる)。3回の診断書のそれぞれでセカンドオピニオンが要求され、普段通っているのとは別の診療所で診断を得ている。
④は手術を受けた病院でほとんど自動的に発行してもらえる。ただし、私は海外で手術を受けたが、その場合には裁判所から診断書の翻訳を添付するよう求められることがある(幸い、私のときには英文のままで大丈夫だった)。⑤については、手術後に婦人科や泌尿器科で検査を受けることになる。これ以外にも書類が要求されることもあるし、また申立人が念のために書類を添付することもある。私の場合は、最初に診断書を得るために必要となった性染色体の検査結果が手元にあったので、念のためにそれも添付しておいた。
しかしこれらの書類をそろえても、まだそれだけで性別変更が認められるわけではない。最終的な決定は、家庭裁判所で審判を受けてなされる。この際に実際のところ裁判官がどういった基準で決定をおこなっているのか、要件をすべて満たしたうえで裁判まで行って変更を認められなかった例があるのかなどについては、私は知らない。ただ、当時のトランスジェンダーコミュニティーでは、「念のために裁判官が性別変更に納得しやすい服装などを心がけたほうがよい」などとまことしやかに語られていた。
さて、以上の一連の流れで、手術要件がなくなることで省略できるのはどこだろうか? 当然ながら、④手術を受けた証明書、⑤生殖腺が機能していないことや性器の外観が適当なものとなっていることという条件は省かれるだろう。性別適合手術のための精神科医の診断書も、性別適合手術を受けないのであれば発行してもらう必要はない。
だが、それらがなくなったとしても、少なくとも裁判所に提出するために精神科医に発行してもらう診断書と裁判は必要となる。診断書を出してもらうには、それに至るまでの通院も必須だ。精神科にしばらく通い、場合によっては1年から2年ほどかけて診断を得て、戸籍謄本とともにその診断書を家庭裁判所に提出し、裁判で申し立てを認められる。これは、何と比較して「容易」だろうか?
まず住所の変更とは比べ物にならない。住所変更などは、転居の必要性を示す診断書も要求されないし、裁判だって受けなくてよい。ただ転居届を出し、本人確認書類と在留カードや特別永住者証明書を見せるだけだ。氏名の「名」の変更はどうだろうか? 私自身は名前を変更した経験がないので伝聞の限りだが、一般的にトランスジェンダーコミュニティーでは、現在のところ性別変更に比べて名前の変更は手術が要求されない点でかなり容易であると言われている。名前の変更も性別の変更と同様に、家庭裁判所でおこなわれる。その際には、申立書とともに変更後の名前の使用実績を示すもの(変更後の名前が宛名になっている手紙など)を提出することが多いようだ。また、名前の変更の手続きそのものに必要とされているわけではないが、トランスジェンダーの場合には基本的に診断書を提出する。
さて、住所変更は手術要件がなくなった場合の性別変更に比べて極めて容易だと言えるだろう。名前の変更はどうだろうか? 仮に提出する書類がまったく同じになったとしても、裁判において性別の変更のほうが名前の変更より緩い基準で認められるようになるというのは考えにくく、せいぜい同じくらいの基準になるか、性別変更のほうが厳しい基準になるかだろう。性別変更のほうが名前変更と比べて一方的に容易になると考える理由は見いだせない。
従って、住所変更や名前変更は特例法が改正された場合の性別変更と同程度かそれ以上に容易だと言える。では、住所変更や名前変更はどのくらい悪用されているだろうか? また、住所変更や名前変更の悪用を理由に、住所変更や名前変更の手続きの撤廃を求める意見はどのくらい出ており、どのくらい受け入れられているだろう? 個人的な印象としては、そのような意見は聞いたことさえない。
惑わされないで
問題は、①「特例法が改正されれば、性別変更が容易になる」と②「性別変更が容易になれば、それを悪用する者が現れる」の「容易」が同じ基準に基づいているか、ということだった。①は明らかに特例法に手術要件が含まれる場合と含まれない場合の比較だが、②はどうだろうか? 手術要件がなくなったところで性別変更が名前や住所の変更ほど容易にはならないのだから、①と同じ比較基準のもとで特例法についてのみことさらに悪用を懸念するのは不合理だ。
おそらく、②を正しいと考えるひとは、これとは異なる基準を用いているのではないだろうか。役所で紙切れ一枚に「女性/男性として暮らします」と記載してハンコを押して提出するというくらいの手続きを考えているならば、確かにそれは悪用されるかもしれない。だがそうした基準を想定するならば、①と②から「特例法が改正されれば、それを悪用する者が現れる」は導けなくなる。「クロは大きい」と「大きいと家に入らない」から「クロは家に入らない」を導くようなもので、基準がまるで違うからだ。
それにもかかわらず、「特例法改正で性別変更が容易になると、それを悪用する者が現れる」と一文にまとめてしまうと、「容易」がひとつになったせいで、特例法改正に関わる「容易」と悪用に関わる「容易」がまるで異なる基準の話であることが隠蔽(いんぺい)されてしまう。結果的に、「特例法改正で性別変更が容易になる」の自明な正しさが、「すると悪用する者が現れるから特例法は改正すべきでない」という本来ならそこから導かれない結論を導くのに用いられてしまうのである。
このレトリックは、少なくとも不誠実だ。
「容易」やそれに類する言葉をこうした話題で用いるならば、それが何を基準にした「容易」なのかを明示すべきだろう。そしてまた、私たちはこうしたレトリックに惑わされないよう注意を払わなければならない。誰が見ても明らかに間違っている前提から得られた結論には、多くのひとは納得しない。けれど、見たところ正しそうな前提から導かれた結論には、その導出が誤ったロジックに基づいていたとしても、うっかり納得してしまうことがある。トランスジェンダーだけではない。女性について、その他のさまざまなマイノリティーについて、こうした怪しいロジックがしばしば登場する。人権にかかわるような話題においては、「本当にその前提からその結論が出るのか?」を問い続けるべきだろう。(哲学者・三木那由他=寄稿)
みき・なゆた 1985年、神奈川県生まれ。哲学者、大阪大学大学院講師。専門はコミュニケーションと言語の哲学。単著に「言葉の風景、哲学のレンズ」「言葉の展望台」(講談社)、「会話を哲学する」(光文社)、共著に「われらはすでに共にある 反トランス差別ブックレット」(現代書館)など。
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル