かあさんのせなか
「食堂かたつむり」や「ライオンのおやつ」など数々の小説を生み出してきた作家の小川糸さんは、「母を遠ざけてきた時間がすごく長かった」といいます。ただ、そんな母の死を通して、変化した思いがあったそうです。小川さんからみた「かあさんのせなか」を聞きました。(聞き手・塩入彩)
「お金さえあれば」 母の言葉に抱いた疑問
母との思い出って何かなと思ったとき、ふと思い出したのが、小学校の夏休みの自由研究。母の提案で、タンポポの根っこを採取することにしたんです。
ただ、タンポポの根っこって下まですごく長く深くて、掘るのはとても大変で。途中でやめたら、母に「最後までやりなさい」と怒られました。泣きながら、母と一緒に掘り出したのを思い出します。
途中で諦めることを許してくれない人でした。いま思うと、花という目に見えている部分はごく一部で、根っこはこんなにも地中深くに広がっているということを、間接的に教えてくれたようにも思います。ただ、当時はとにかく母が怖かったし、母が自分のためにやっているようにしか思えなかった。違う見方ができるようになったのは、それこそ母が亡くなってからです。
生前、母との関係はあまりよくなかったんです。母を遠ざけてきた時間がすごく長かった。
母は福祉系の公務員で、仕事にとても責任感を持っていました。家族に対しても「経済的に支えなきゃ」という意識が強く、オブラートに包んで言えば「教育熱心」。幼稚園の頃から、小学校の算数や漢字のドリルを与えられ、間違えると、たたかれました。それがすごく怖くて、嫌で、本当に泣き叫びながら逃げていました。
時代の影響もありますが、「いい学校や大学に入れれば、経済的にも豊かになる」という価値観を持っていて、「お金さえあれば生きていける」ともよく言っていました。私は子どもながらに、そんな母に疑問を持っていました。
母は、常に満たされない思いを抱えていました。母自身は長女だったのですが、「親は妹ばかりを可愛がっている」と感じていたようです。
大人になってからも、よく言えば責任感が強い一方、自分の努力が認められないと、すごく混乱する。「なんでこんなに自分は頑張っているのに、それを認めてくれないんだ」と。だからこそ、私がちょっとしたことで母を褒めると、すごく喜んで。子どものような面がありました。
私が作家としてデビューした頃、母自身が大きな問題を抱えてしまい、母に向き合うほど、私も消耗しました。このままでは、自分も巻き込まれ、健康的な生活を送れなくなる。そう思い、母とは連絡を絶ちました。
記事後半では、母親との関係性の変化について小川さんが語っています。
転機はその数年後、母からの…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル