日中戦争中の1939年5月17日。現在の福岡市にあった飛行場に旅客機が墜落し、乗員・乗客6人が亡くなった。現場近くには慰霊碑が立ち、周囲に花が咲く。誰が碑を守り続けてくれているのか――。事故から83年目の17日、当時の乗員2人の親族が現地を訪れた。
博多湾に突き出た陸地の付け根あたり、福岡市東区(旧和白村)にかつて「雁ノ巣飛行場(福岡第1飛行場)」があった。36年に開港し、「東洋一の規模」ともいわれた国際空港。戦後は米軍に接収されたが77年までに全面返還され、現在はスポーツ施設「雁の巣レクリエーションセンター」などが整備されている。
83年前の5月17日。東京から到着した大日本航空のプロペラ旅客機「球磨号」が、日本統治下の朝鮮・京城(現在のソウル)に向け離陸した直後に炎上し、飛行場北側の松林に墜落。乗員・乗客11人のうち6人が亡くなった。
「生き残った責任」 遺族を訪ね歩いた父
栃木県那須塩原市の秋元義彦さん(69)の父・健二さんは、無線通信士として搭乗していた。一度は避難したものの、乗客を救うために燃え上がる機体に戻り大やけどを負った。
事故について健二さんは多くを語らなかったが、遺族の元に通い続けていたという。「生き残ったことへの責任をずっと抱えていたのだと思う」と秋元さんは言う。
その遺族の中に、東京都中央区の中村豊さん(73)がいた。中村さんの伯父・大和田武雄さんは機関士として搭乗し、命を落とした。28歳だったという。
秋元さんと中村さんは、健二さんが亡くなった後も交流をつづけ、それぞれ5月17日に慰霊碑に手を合わせてきた。いつ訪れても慰霊碑の周りには雑草一つなく、花が揺れていた。近辺に関係者は住んでいないはず。「誰が手入れをしてくれているんだろう」。2人の長年の疑問だった。
■「きれいな慰霊碑」の謎 近…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル