広島と長崎に米軍が原爆を投下してから78年。5月に被爆地・広島で開催された主要7カ国首脳会議(G7サミット)では、「核兵器のない世界」が主要テーマの一つとして議論されました。核兵器で国を守ろうとする動きからどう脱却していくのか。小説家の平野啓一郎さん(48)に聞きました。
故郷の北九州市は原爆教育が盛んでした。小学生のころ、8月6日、9日に合わせて登校したり、原爆の映画を見たり。本当は(長崎原爆は)北九州市に投下されるはずだったんだという事実を教育を通じて知りました。自分の故郷が被爆していたかもしれないということを強く受け止めました。
被爆作家・林京子さんに感銘
小説家になってから(長崎で被爆した作家の)林京子さんの「長い時間をかけた人間の経験」という作品を読んで、非常に感銘を受けました。
原爆というと「あの日あの時に起きたこと」と考えがちですけど、小説のタイトルの通りに長い時間、被爆の経験とともに生きてきた事実の重みを感じました。
林さんが書かれている長崎弁は僕の地元の北九州弁と近いようなところがあるんです。そういう言葉で、被爆直後に情報もない中で色んなことを語っているんですよ。「石油缶を大量に落として、そこに焼夷(しょうい)弾を撒(ま)いたのだ」とか。
戦争について考える時にどうしても「何人の被害者が出た」と人間を抽象的に考えがちです。ただ、方言で語っている人たちが実際に被爆して死んでいったことを描いた文学を読むと、本当にその土地に根ざした「人の生活」が感じられます。市街地の上に原爆を落とすというのは改めて人道に背くことだと痛烈に感じます。
林さんには直接お目にかかってインタビューもさせて頂きました。原爆による死は、人間の死じゃないんだっていうことをおっしゃるんですね。
死んでいい死ではない、人間に与えられていい死ではないんだっていうような意味合いです。原民喜も同じことを言っていますが、人間があのように扱われて死んでいいはずがないと、そのようにおっしゃったのが印象的でした。
肯定的に捉えようがない
いま、戦争のイメージから悲惨さっていうものが抜け落ちているように感じます。
僕が子どもの時、日本の戦争に関する映画として「ビルマの竪琴」がヒットしました。ジャングルの中で何にもないまま若者たちが放り出されて、飢えや病でたくさん亡くなっていく。そういう場面もあります。
僕の祖父も徴兵されてビルマ(現ミャンマー)に行きました。「まさにあの通りだった」と言っていました。「天皇陛下のため」「国のため」と、雄々しく死んでいくんじゃなくて、補給もないまま餓死したり、赤痢にかかって死ぬというのは、侵略の加害だけでなく、自国民に対する政府の仕打ちとしても、どう考えたって肯定的に捉えようがないです。
ただそういう旧陸軍の悲惨な…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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