戦時下、障害者はどう生きたか 聞こえぬ耳、伝える空襲体験 

 77年前、日本の都市は相次いで無差別爆撃にさらされた。空襲で計7千人以上が死亡した神戸には、その悲惨さを手話で伝え続ける聴覚障害者の男性がいる。戦争は立場の弱い人たちを、より困難な状況に追い込む。戦火に追われるウクライナ市民の姿に、当時の記憶が重なる。(井岡諒)

 深いしわが刻まれた男性の手の動きを、子どもたちは一心に見つめていた。両手を素早く上下させ、77年前の神戸に雨のように降り注いだ焼夷(しょうい)弾を表した。

神戸市内の小学校で、空襲体験を手話で伝える山村賢二さん=2022年1月21日午前10時13分、神戸市灘区、井岡諒撮影

 「女性の髪は焦げて縮れ、肩は血でべったりとぬれていました」。1月下旬、神戸市内の小学校で山村賢二さん(90)=神戸市灘区=が語る惨状を、手話通訳が翻訳していった。

 山村さんは1932年、神戸市生まれ。幼い頃に病気で聴覚を失い、父の勧めで兵庫県立聾啞(ろうあ)学校(当時)に進学した。2人で行った銭湯で手話を交わす子どもたちを見かけたのがきっかけだった。

 神戸大空襲の当時は13歳だった。父は敵機を知らせるサイレンに気付かない息子をいつも気に掛けて、「絶対に離れてはダメだ。しっかりつかまっていろ」と守ってくれた。

聞こえぬ空襲警報

 通学途中に警報が出たことも。駅員がメガホンで何かを叫び、乗客が慌ただしく動き始めたことで警報を察し、ホーム下に潜り込んだ。

 1945年3月17日。新開…

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空襲1945

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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