長野県千曲市の田中頌子(たなか・のぶこ)さん(90歳)は2017年から18年にかけての冬、長い間心の中にしまっていた戦争体験を記録し始めた。 2017年の秋に体調を崩した頌子さん。「もしかしたら冬を越せないかもしれない」。いよいよ死を意識したとき、後世にどうしても伝えたい記憶があった。 戦死した兄のこと、そして息子を失った母が人知れず流した涙のこと。 「伝えなければ」。20枚の原稿用紙に思いを託した。
「何があっても慌てるな。親に孝行しろ」兄の言葉
頌子さんは、長野県東筑摩郡で、萬井(よろずい)家の次女に生まれた。一家は、父母と兄2人、姉妹4人の8人家族だった。 10歳離れた兄・美夫(よしお)さんが徴兵されたのは、1943年の春のこと。1年前に長野の師範学校(現在の信州大学教育学部)を卒業し、小学校の教員として働き始めたばかりだった。 その年の秋、美夫さんが突然、軍から2泊3日の外出許可をもらって実家に戻ってきた。 「いよいよ外地に出される日が近づいて、故郷へ別れに帰ったきたな」。美夫さんのいないところで、両親が小声でそう話すのが聞こえた。 部隊に戻る前夜、美夫さんは頌子さんたち妹4人を部屋に呼ぶと「話しておかなきゃいけないことがある」と目の前に座らせた。 「何があっても慌てるな。家を守り、父母を助け、親に孝行しろ。喧嘩はいけない、兄弟仲良くしろよ」。美夫さんはそう言うと、妹2人の頭を撫でた。 まだ6歳の末っ子は、兄の話すことがよく分からなかったからか「ワアワア」と泣きながらも、コックリと頷いた。母はそんな妹をあやしながら、兄弟の姿を見つめていた。 翌朝、美夫さんは遺書と髪の毛、爪を残し、家をあとにした。
「柚子一枝の葬」
美夫さんが戦死したという知らせが届いたのは、翌年1944年の6月だった。 「ありがとうございます」。そう言って戦死の公報を受け取る父を、頌子さんは不思議な思いで見つめた。 「人が死んで、なんしてありがたいのか」。 気丈な母・とみさんの涙を見たのは、美夫さんの遺骨を受け取ってしばらく経ったある日のことだ。 学校から帰ると、遺骨の前で声を押し殺して泣く母の姿があった。 我が子が戦死しても「軍国の母」と呼ばれ、声をあげて泣くことさえ許されない母。見てはいけないものを見てしまったように感じ、声を掛けることもできず立ち竦んだ。 「そういえば、母ちゃんから畑で頼まれていたことがあったっけ」。黙って外に出ると、ひとり畑へ歩いた。切なさがこみ上げ、涙が溢れた。 村で行われた美夫さんの葬儀はとても質素なものだった。供物は「花の代わり」に黄色い実が5、6個付いた柚子一枝だけ。それでも、花一輪ないよりはありがたかった。 「これがあの子の葬儀かねえ。一枚の召集令状で血の出るような努力をして」。葬式が終わると、母はそう呟いた。 頌子さんはあれから葬式に出るたびに、あの「柚子一枝の葬」を思い出す。 「今葬式に行ってみれば、これでもかというくらい花も弔電もある。これも葬式、あれも葬式。戦争中の人の命はなんて安かっただなあって思う」
Source : 国内 – Yahoo!ニュース