興野優平
広島県呉市で建造された戦艦大和が沈没して79年となった7日、呉市上長迫町の長迫公園(旧呉海軍墓地)で追悼式があった。遺族らが花を手向け、戦死者を悼んだ。
主催した「戦艦大和会」の小笠原臣也会長は、ロシアのウクライナ侵攻やパレスチナ自治区ガザでの戦闘に触れ、「世界平和維持に貢献することが英霊の遺託に応える道」とあいさつした。
大和は1945年4月7日、沖縄特攻作戦の途中、鹿児島県沖で米軍機の攻撃を受けて沈没。乗組員3332人のうち3056人が亡くなったとされる。
元広島市立大学長の藤本黎時(れいじ)さん(92)はこの日、初めて追悼式に参列した。
44歳で亡くなった父・弥作さんは大和の乗組員だった。最後の航海の2日前、自宅で湯豆腐をさかなに晩酌をしながら、「日本は勝てないな」と一言もらしたのを藤本さんは鮮明に覚えている。
当時13歳の藤本さんの顔を見ながら「もうそろそろ、お父さんに戦死してほしいんじゃないか」とも言ったという。隣近所では戦死者が相次ぎ、「生き残っている自分が恥ずかしい」とこぼしていた弥作さん。夕方に仕事が終わっても、人目を気にして暗くなってから帰宅していたという。
藤本さんは「戦死しないでほしい」と思っていたが、それを言葉にするのは非国民だという気持ちがあった。「だから、じーっと下を向いて黙っていましたね」。それが父との最後の思い出だ。
藤本さんは「大和の沖縄特攻を命じた人は、なぜそんな無残な命令を発したのか。将兵の立場に立って考えられなかったのか」と話し、式場を後にした。(興野優平)
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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