ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が来日する。私たちは、彼の言葉をどのように受け止めればいいのか。批評家の若松英輔さん(51)に聞いた。
――日本人の多くは、カトリックではありません。ローマ教皇の言葉をどう受け取ればいいのでしょう。
今回、この時期の来日は、誰かが勧めたわけではなく、教皇自身で決めたのだと思います。
まず、彼にとって日本がとても大事な国であることは記憶しておいてよいと思います。彼は神父になったとき、宣教師として日本に来ることを希望しました。しかし、健康状態が十分ではなく、そのときは許可が得られませんでした。
彼は、自伝的なインタビューで、日本は戦後の焦土から奇跡的な発展を遂げた国であるということ、そして禁教令のあとでも潜伏キリシタンたちが、司祭の指導なく信仰を守り続けた国であると述べています。つまり、経済、政治、信仰など、様々なところに可能性を宿した国というのが、日本に対する彼の認識だと思うんです。
なぜこの時期なのかという問題は、いくつかの側面から考えてみることができそうです。
まず、フランシスコ・ザビエルの1549年の来日から、今年で470年になります。1919年に日本に初めて教皇特使が派遣されてから100年。第2次世界大戦中、バチカンとの国交が断絶し、1949年に再び教皇特使が日本に派遣されてから、ちょうど70年という、様々な節目でもあります。
現代社会に目を移してみると、日韓関係、あるいは中国大陸でのカトリック教会の今後など、アジアにおける日本の役割を見極める、という意識があるのではないかと思います。
日本のカトリック教徒は公式で44万人。総人口の0・3%にすぎません。彼は、「非キリスト者」に向けてこそ、言葉を届けに来るのではないでしょうか。キリスト者で集まるということは、それ以外の人々を疎外することになる。だから逆に、キリスト者が人々の中に入っていかなくてはならない、と強く訴えるのです。
もちろんカトリックの人々にも大きな期待を寄せていることは、言うまでもありません。しかし、彼は同志であるキリスト者に、非キリスト者のところへと「出向いていく」ことを促しにくるのだと思います。
教皇は、「出向いていく教会」という言葉を使います。これからの教会は、使徒のためだけではなく、すべての人に開かれた教会でなくてはならない。「国境を持たない教会」という言い方もしています。異質な人との交わりの中でこそ、自分たちの本来の使命、役割、あるいは可能性にも気がついていく。これが人類の歴史であり、キリスト教の歴史だと、彼は考えているのだと思います。
教皇は「連帯」という表現を用います。これを彼は政治的な次元ではなく、いわば「いのち」の次元で実現しようとしている。
さらに、ここでいう「連帯」とは、相いれないものとの連帯も含みます。わかり合える人たちだけの連帯では、今の世の中を良くするには不十分です。
連帯とは何か、改めて考えさせ…
980円で月300本まで有料記事を読めるお得なシンプルコースのお申し込みはこちら
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル