メディアリテラシーではフリーアナウンサーの柿崎元子が、メディアとコミュニケーションを中心とするコラムを掲載している。今回はコロナ後のコミュニケーションについて―
【芸能人によく会う夫】
「さっき、すれちがったのは妻夫木君だよね?」 数年前、両親にクリスマスプレゼントを買おうと街を歩いていたとき、夫が私に言いました。「えっ?」と急いで振り向きましたが、誰もいません。「ほら、そうやってすぐに振り返るでしょう。それは知らない人に失礼だよ、すれちがったのはちょっと前」と言われました。 「いやいや、言われたら見ちゃうでしょう」と反論し、「よく見つけるね」、「ほんとに見てないね」と互いに言いながら、話は“街を歩いているときの視線”という観点に移って行きました。 私は駅に向かって歩くという目的のもと、まったくと言っていいほど人の顔を見ていません。ですから、仮に知っている人とすれちがっても気づかないことが多く、ましてや芸能人と出会うことなど皆無です。それに比べ夫は、よく「いまの○○さんだね」や「△△さんに似ている人を見た」と言います。 これは、どういう違いなのでしょうか?
【ぶつからない目線】
スクランブル交差点にて。こちらから歩いて行く自分、向こう側から歩いて来る人。この二者が対面したときに、一瞬同じ向きに踏み出してしまうことがありますよね。自分が右に行こうと思っているのに、相手も右に動き、結局立ち止まってしまうアレです。 何度か左右に動いて、「ごめんなさい」「失礼」などと声をかけ、何ごともなく通り過ぎるのですが、皆さんにも経験がありませんか? ちょっとバツが悪い感覚。こんなときは、“相手と目を合わせないといい”と言われたことがあります。 目が合うと、互いにどちらに行くのかなと考えます。お互いの目線を追いかけて、「この人はこちら側に動くんだ」と判断しようとするからです。一瞬のことですが、この判断に時間がかかる分、余計な動きをしてしまうようです。それ以来、私は人の顔を見なくなり、あまりぶつからなくなりました。 さて、既にお気づきだと思いますが、こんな習慣のためか、私は人と視線が合わないようにして街を歩いています。相手の顔を見ていません。しかし、これはよくないことだと思います。人と接触しなくなったことで、“自分”と“相手”の存在は人間の営みの根源であると認識したからです。 相手の目は、イコール存在です。まるっきり無視してはいけませんでした。夫は常に相手を認識していました。顔や目を見ているからこそ、気づくことができる。まさに目でコミュニケーションを取っていると言ってよいでしょう。
Source : 国内 – Yahoo!ニュース
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