旅人もたたえた本格的な宮殿「吉野宮」(産経新聞)

 奈良県吉野町の宮滝遺跡で、聖武天皇らが行幸した離宮「吉野宮」(よしののみや)であることを裏付ける建物群が見つかった。新元号「令和」の典拠となった歌会「梅花の宴」を主宰した大伴旅人も、万葉集の歌でこの離宮の素晴らしさをたたえている。

 神亀元(724)年、旅人は聖武天皇の行幸に随行し、こう詠んだ。

 み吉野の 芳野の宮は 山柄(から)し 貴(たふと)かるらし 川柄し 清(さや)けかるらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろづよ)に 変らずあらむ 行幸(いでまし)(いでまし)の宮

 「柄し」とは品位のことで、気品のある山や川に囲まれた宮や天皇をたたえた歌とされる。それが、今回見つかった宮殿で詠まれた可能性があるという。

 調査した県立橿原考古学研究所の広岡孝信指導研究員は、天皇が滞在した「正殿」と考えられる大型建物跡の正面に、万葉集に詠まれた象山(きさやま)がそびえているところに着目。「歌会を開くのにふさわしいロケーション」と指摘する。

 別荘のイメージもあった離宮は、コンパクトだが本格的な宮殿だった。その理由を万葉学者の上野誠・奈良大教授は「役人が集まって壬申(じんしん)の乱をしのぶため、本格的なものを建てたのだろう」と推察。吉野宮から出兵して壬申の乱に勝利し、新時代を開いた天武天皇の功績をたたえる場所でもあったという指摘だ。

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Source : 国内 – Yahoo!ニュース

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