戦後、欧米を中心に世界的なうねりとなった「熱い抽象」。画家の身ぶりや物質性を強調する激しい抽象の波は日本にも届き、ひとりの「熱い」コレクターを生んだ。
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大橋嘉一(かいち)(1896~1978)は大津市出身の企業家・化学者。現在の大橋化学工業を創設し、本業のかたわら、50~60年代を中心に戦後日本の前衛美術を収集した。33作家の計90点で構成する奈良県立美術館の「熱い絵画」展では、彼の没後、大阪・奈良・京都の三つの美術館・資料館に散った大橋コレクションが初めて一堂に会する。
収集品の中には戦前のシュールレアリスムを引き継ぐ桂ゆきや古沢岩美らの具象絵画も交じるものの、大橋がもっぱら愛したのは抽象。中でも、垂らした絵の具の軌跡が画面全体を覆う鶴岡政男の出展作は、戦後社会を映したリアリズムの代表作「重い手」で知られる鶴岡には数少ない純粋抽象だ。粗い麻袋やカミソリなどで傷つけた紙を使って物質性を追究した須田剋太のように、戦後はそれまでの具象表現から抽象へ移行した画家も多かった。
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日本美術院出身の岩崎巴人(はじん)らが結成した日本表現派など、当時は日本画の世界でも、花鳥風月や歴史など従来の画題を離れ抽象に近づく実験が盛んになった。関西のパンリアル美術協会は、和紙や岩絵の具といった日本画の材質からも逸脱した。例えば、野村耕の出展作「マンハッタンA」は京都の西陣織で使われるパンチカードを立体的にコラージュし、都会の夜景のビル群に見立てている。
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大橋は事業所のある東京を頻繁…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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