ビルが立ち並ぶマニラ郊外にあって、フィリピン人兵士らを追悼する英雄墓地は、ただそこだけがひっそりとしている。
7月、雨が降りしきる中、無数の十字架が並ぶ墓地のひときわ大きな墓の前で、日本とフィリピンの関係者約60人が花を手向けた。
そこには、エルピディオ・キリノ元大統領(1890~1956)が眠る。キリノ氏は太平洋戦争終結から8年が経った1953年、「憎悪の念を残さない」という声明を出して日本人のBC級戦犯に恩赦を出し、当時収監されていた105人全員の帰国を許した。
それから70年を迎えた先月、日本大使館や戦犯が収監されていたモンテンルパ市、キリノ氏の遺族が主催し、「未来への平和」と題した式典を開いた。
日米の激戦地となったフィリピンでは、多くの市民が犠牲になった。
式典で越川和彦・駐フィリピン大使は「悲劇的な喪失や同胞からの激しい批判にもかかわらず、恨みと報復より平和と赦(ゆる)しの道を選んだ傑出した人物だ」と述べ、キリノ氏をたたえた。
同胞からの激しい批判――。フィリピンの人々にとって、あの戦争がどのような意味を持ったのか。それを知る上で象徴となる、ある事件を朝日新聞の従軍記者が目の当たりにしていた。残された手記をもとに再現する。
山中で捕らえられた政府高官
熱帯のフィリピンで4月は本格的な雨期を迎える前の最も暑い季節だ。開戦から4カ月が経った1942年4月、朝日新聞の神谷諦雅(たいが)記者は時折襲うスコールと特有の暑さに悩まされながら、セブ島の山中を転々としていた。
1953年、フィリピンのキリノ大統領は日本軍のBC級戦犯105人に恩赦を出しました。自らも妻子を殺された大統領は国民の大きな反発を受けながらも、なぜ赦したのか――。連載初回は処刑されたフィリピンの「英雄」を通して、あの戦争が日本社会に投げかけるものを考えます。
従軍していた川口清健(きよ…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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