隅田川の花火大会から一夜明けた7月30日。料亭街として知られる東京・向島で65年続いた喫茶店「季節の生ジュースとくるみパンの店 カド」が、その歴史に幕を下ろした。店内の壁や天井に飾られているのは、華やかな西洋絵画やシャンデリア。その独特の雰囲気が多くの客に愛されてきた店は、父と子の合作だった。
「僕はおやじが還暦の時の子どもだから、20年ちょっとしか一緒にいられなかったんだよね。この店は完全に父の形見。それだけ大事なものでした」。そう話すのは、店を継いで30年になる宮地(みやじ)隆治(りゅうじ)さん(54)だ。
父の捨吉(とうきち)さんが店を開いたのは1958年。作家の志賀直哉の弟で、建築家の直三氏に依頼してつくった英国パブ風の店に、集めた絵画や装飾品を飾った。開店当時は料亭の客が待ち合わせなどによく使ったという。人気メニューは、セロリやアロエなど7種類の具材を使った「活性生ジュース」だ。
周囲の親よりも世代がひとつ上で戦争経験があった捨吉さんは、美術や文学が大好きだった。隆治さんは、そんな父親に影響を受けて育った。捨吉さんが倒れて店を継いだ後、店の内装やメニューを守りながら、テーブルや天井にバラの絵を自分で描き加えるなどもしてきた。
「この店は父と私の合作。それに志賀直三さんも含めてみんなの共同作品だから、これをできる限り残すのがうちの家族の誇りなんです」
ところが約1年前、そんな店に転機が訪れた。老朽化で建物が崩れる恐れがあるとして、大家から退去を求められた。実際に今年の春先には外壁が大きく崩れ落ちたこともあり、隆治さんは閉店を決めた。
最終営業日、シートなどで外壁の一部が覆われた店の外には開店前から行列ができた。SNSで店のことを知った若い女性を中心に、常連客も訪れ名残を惜しんだ。
14年通っているという近所の女性はこの日、午前と午後の2回、店を訪れた。「子どもの頃から知ってたけど、来るようになったのはやっぱり大人になってから。美術的にも歴史的にもこんなお店なかなか無い。向島を象徴するようなお店が無くなるのは寂しい」
そんな常連客らに見守られながら迎えた午後8時過ぎ。最後の活性生ジュースを常連客に出すと、カウンター越しに花束やねぎらいの言葉を贈られた。
隆治さんは、「壁が崩れて店が終わるのは不可抗力。もうやりきったよね。店は天に返すんですよ。お父さん、これでいいでしょっていう気持ちです」と話し、自分用につくった一杯に口をつけた。
■夢だった海辺の街へ…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル