昭和の水木しげるがタイパの令和に生きていたら ゲゲゲの長女が語る

 昭和に生き、生かされた漫画家・水木しげる。令和の世になっても存在感は変わらず、公開された最新の映画も人気だ。ほの暗くて、ほっとするような……あの不思議な作品世界の源泉とは? 長女の原口尚子さんが父の後ろ姿を語ります。

水木しげるさんは「ゲゲゲの鬼太郎」を生み、「昭和史」などで自らも経験した戦争の現実や復興の熱気を描いた。2015年没、享年93。原口さんは、水木プロダクション取締役として父の作品を後世につなぐ。

 水木しげるが令和に生まれていたら……そう考えると、苦笑してしまいます。さぞや窮屈だったでしょう。コスパ、タイパといった効率前提の考えに背を向ける人でしたから。

 「無為に過ごす」。鬼太郎などの連載で忙しかった頃、そんな風に書いた紙を、仕事部屋にべたべたと張っていました。長年、漫画家として締め切りに追い立てられる日々でしたから、そうやってどうにか平常心を保っていたのかもしれません。

「最短距離」求めず歩んだ

 大正11(1922)年生まれ。水木が昭和を迎えたのは4歳の時です。朝寝坊なのにしっかりと朝ごはんを食べて学校にゆくから、毎日のように遅刻していたそうです。ガキ大将でいたずら好き。嫌いな算数などはやらず、0点ばかりだったとか。

 ただ、好きなことには没頭するたちで、昆虫採集に熱中し、私設動物園まで作ろうとする子どもでした。絵を描いたら新聞で天才少年画家あらわる、と称されるほどでした。

 育ったのは鳥取・境港。港町の開放的な気風もあったのでしょうが、昭和の世間では人への見方がおおらかだったように思います。

 軍国主義の時代でもありましたし、学校ではバッテンをつけられるような子だったかもしれません。でも、あいつはああいうやつだからな、と大目に見てもらえる土壌があったのではないでしょうか。

 そんな温(ぬく)もりの中で…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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