昭和天皇との詳細な面会内容を記した初代宮内庁長官、田島道治(みちじ)氏による「拝謁記」が19日、明らかになった。主に昭和20年代後半の面会の記録には、新憲法下で「象徴」として歩み出した昭和天皇が、国民との距離を縮めようとする発言が多く残されていた。上皇さまと天皇陛下のご姿勢に連なる象徴像を模索する様子が見て取れる。
「従来政治軍事中心であつたのを今度ハ文化中心で(中略)国民との接触を謀らねばならんと思ふ」-。昭和天皇は26年1月24日、田島氏にそう決意を述べたと記される。その後も「兎ニ角(とにかく)皇室と国民との関係といふもの時勢ニあふ様ニしてもつとよくしていかなければと思ふ」(同10月10日)といった発言のほか、田島氏に「何か皇室と国民との理想的結びつきに行く様研究し骨折つて欲しい」(同)と依頼したこともあったという。
昭和天皇は21~29年にかけて全国巡幸を行い、戦禍で傷ついた国民を励ましたが、地方訪問について「皇室と国民との接近を害するやうになつても困る」「折角出掛けても逆の印象を与へる事ニなるから困る」(27年2月25日)とも発言。米軍や警察の厳重な警備が、国民との触れ合いの壁となることへ懸念を示していた。
一方、やり取りの中では、新憲法下で国政に関する権能を持たない「象徴」の枠を超えた発言もみられた。再軍備や憲法改正に関する意見を当時の吉田茂首相に伝えることを提案したものの、田島氏から新憲法の理念などの説明を受け、止められる様子が記載されていた。
日本大の古川隆久教授(日本近現代史)の話「質、量ともに膨大で、昭和天皇の肉声とも言える言葉が生々しく描かれている。戦争の苦い追憶が多く、昭和天皇は戦後も戦前・戦中を生きていたことがうかがえる。首相へ意見を述べようとする場面などは、新憲法を頭では理解しながらも『自分が何とかしなければ』という思いがあったのだろう。象徴天皇を模索する過程での葛藤や悩みが分かる資料だ」
【関連記事】
Source : 国内 – Yahoo!ニュース