終戦が迫っていた1945年の夏。岩手県釜石市は、連合国軍の艦隊から2度の艦砲射撃を受けた。釜石市に住む佐々木郁子さん(93)は当時、看護師の見習いとして救護活動にあたった。「生き地獄」だったという「その時」を克明に語ってくれた。(構成=東野真和)
7月14日のこと「鮮明に覚えています」
7月14日。ええ、鮮明に覚えています。
私は15歳。看護師の見習いとして、釜石製鉄所の病院で働いていました。
早朝5時ごろ、空襲の警戒警報が発令されました。
私は家から病院にかけつけ、当直の先輩看護師と、入院患者を防空壕(ごう)の中に避難させて、外来患者の診療にあたりました。
正午間近のころでした。「敵機襲来」の知らせを受け、私たちも防空壕に入りました。間もなく砲弾が落ちてきました。「ガーン」「ドーン」とものすごい炸裂(さくれつ)音で地面がぐらぐら揺れました。あとから思えば、それが製鉄所を標的とした艦砲射撃の始まりでした。
それから2時間、恐怖に震えながら同僚と励まし合って、耐えました。警報が解除された時に見た同僚の顔は、表情を失い、憔悴(しょうすい)しきっていました。
外に出ると、製鉄所周辺は廃…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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