暗闇と轟音、残骸に挟まれ救助待つ夜への追憶 墓標に募る万感の思い

 あの夏、日本航空のジャンボ機が「御巣鷹の尾根」に墜落し、多くの犠牲者とともに4人の生存者が見つかった「スゲノ沢」に立つ。

 沢を流れる水のせせらぎを遮るように、時折、上空を通過する飛行機のエンジン音が山に響いた。

 38年前、事故機に乗っていた人たちは、柔らかな水音をかき消すヘリコプターの轟音(ごうおん)をここで聞いていたのだろうか。

 夜が更けて朝が来る、救助隊が到着するまでの間、明かりのない真っ暗闇の山の中で、機体の残骸の隙間で全身の痛みに耐えながらじっと待っていた人がいた。

 生存者の証言によれば、墜落から救助隊の到着までの間、他にも生きていた人がいた。

連載「御巣鷹のバトン~サイドB」(下)

1985年8月12日に日航機が墜落した現場とそこへ集う人々はいま、後世に何を伝えようとしているのでしょうか。事故後に生まれた記者(26)がたどります。

 どれほど長い夜だっただろう。ヘリに向かって「私たちはここだ」と訴えていたはずだ。その命がこの場で絶えゆくとき、家族や大切な人のことを思いながら、目を閉じたのだろうか。

 御巣鷹の尾根をぐるりと回り、スゲノ沢のそばに戻ると、軍手をはめて作業をする美谷島善昭さん(76)がいた。甲子園を見にいくため1人で日航機に乗った息子の健さん(当時9)を事故で亡くした。

 事故のあと、日航が登山道の整備を続けていたが、美谷島さんも遺族として、息子たち520人の命を慰霊するこの場所を守っていこうと決めた。

 5、6人が作業していた。だが、全員がこの事故の遺族というわけではない。

 東日本大震災や難病などで大…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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