高松港(高松市)と宇野港(岡山県玉野市)を結ぶ宇高航路で運航していたフェリーが休止となった。昭和63年の瀬戸大橋の開通以降、利用客の減少に歯止めがかからず運航会社が相次ぎ撤退。唯一、運航を続けていた四国急行フェリー(高松市)も「収支改善が見込めない」と休止を決めた。運航最終日の港には多くの人が集まり、長年にわたって物流と人の往来を支えたフェリーとの別れを惜しんだ。
■ドラの音で見送り
令和元年12月15日。午後7時15分ごろ、宇野港からの最終便が高松港に到着すると、ヘッドライトをつけた車両や乗客が続々と降りてきた。
すでにフェリー乗り場には、大勢の乗客が列をなしていた。この日は混雑が予想されたため、同社は予約は受け付けず当日券のみの販売とした。車両と乗客がフェリーに乗り込んでいく。デッキに集まった乗客は、港に向けて盛んにシャッターを切っていた。
同7時50分ごろ、同社営業部長の堀本隆文さんがドラを鳴らした。感謝の気持ちを込めた長い汽笛とともに、ゆっくりと岸を離れていくフェリー。港に集まった人たちは「ありがとう」とねぎらい、手を振って見送った。
手にした帽子を振って、遠ざかるフェリーを見つめた堀本さん。「歴史ある宇高航路は本日をもって運休となりました。瀬戸内海の船旅の思い出とともに、みなさんの心の中にずっと大事にしてもらえたら」と感極まった様子で語った。
■「最後を見届けたい」
船内の席は、窓側から埋まった。足を伸ばしてくつろげるじゅうたん敷きのスペースも人気。乗客は思い思いに船旅を満喫した。
高松市の公務員、結城晴年さん(46)は転勤の多い仕事柄、本州から四国への帰省の際にフェリーをよく利用したという。「休止は残念だが、時代の流れに沿った形でしようがない」と受け止めた。
結城さんが通った中学校では、昭和30年の紫雲丸事故で修学旅行中の生徒が亡くなった。高松市沖で、国鉄宇高連絡船「紫雲丸」が別の船と衝突し、沈没。168人が犠牲となったこの事故を契機に、本州と四国を結ぶ橋の建設を求める機運が高まり、63年に瀬戸大橋が開通した。母校では修学旅行の前に、事故で亡くなった先輩に黙祷(もくとう)をささげるのが恒例だったといい「そんな縁もあり、フェリーの最後を見届けたかった」と語った。
■売店スタッフも奮闘
船内の売店の前にある10席の「うどんコーナー」はこの日もすぐに満席になった。きつねうどんなどを手にした乗客が、入れ代わり立ち代わり席に着き、うどんをほおばった。
普段、この便ではうどんの販売はしていない。休止の方針を公表して以降、同社に「最後にうどんを食べたい」という要望が寄せられたため、特別に販売。売店スタッフの女性は「せっかく乗ってもらったからには、名物のうどんを味わってほしいので」と話した。最終日は計10便で千食以上を用意したという。
「ごちそうさま」と食べ終わった後のどんぶりを売店に返す客。注文に対応し、うどんを盛りつけるスタッフの後ろでは、別のスタッフが大量のどんぶりを手際よく洗っていた。
■109年の歴史に幕
風が吹き付けるデッキに上がると、船旅の終わりを告げるように街の明かりが近づいてきた。フェリーは午後8時40分ごろ、宇野港に接岸。フェリーの現在地を示すモニターに写る船の絵も、動きを止めた。
車両と乗客が降りると、港に集まった人たちは長年にわたって人々の生活を支えたフェリーに拍手を送った。しばらくすると操舵室の明かりが消えた。国の「宇高連絡船」として明治43(1910)年に始まった宇高航路は、109年の歴史にピリオドを打った。
Source : 国内 – Yahoo!ニュース