日韓関係が悪化している。ことの発端は徴用工訴訟だという。日本の報道の多くは、1965年の日韓請求権協定で「決着済み」という日本政府の主張を当然とし、前提としているようだ。徴用工とは何か。それを知ることが、この問題を考える「初めの一歩」だと思うが、そんな記事もコメントもほとんど見ない。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)
私の故郷である青森県の下北半島には、未完成の大間鉄道のトンネルや橋梁がそこここに残る。津軽海峡に面した海岸線のほぼ中央、大畑駅までの鉄路を、半島の西北端・大間まで延ばす。それが大間鉄道だった。日中戦争さなかの1939年に着工、戦況が悪化して43年に建設中止となった。
■捨てられた地域史
大間は今ではマグロで有名だが、北海道まで20キロ足らず、津軽海峡を航行する船舶をにらんで戦略的に重要な拠点である。大間鉄道は軍事路線であり、だからこそ戦時中にもかかわらず着工されたのだ。
子どものころ大人から聞かされたのは「あの鉄道が完成していれば…」という繰り言めいた言葉。そして「あそこにはタコ部屋があった」というささやきであった。
もし開通していれば、地域が発展していただろう。繰り言の意味は、子どもにも分かったが、「タコ部屋」が理解できたとはいえない。つついてはいけない、知らない方がよいことのように思われた。だが、それこそが「徴用工の現場」だった。
地域史研究者・鳴海健太郎は中学時代の恩師でもある。昨年、86歳で他界されたが、タコ部屋で強いた労働を「捨てられた地域史」と言い、史実発掘の意欲を燃やし続けた。それには自らの原体験があった。
「私は少年時代に、朝鮮人の働いている姿をまざざまと見ています。大間鉄道のトンネル工事の時、タコ部屋という拘禁の飯場があり、下風呂甲峠(しもふろかぶととうげ)で働いているのを見たのです。髪はぼうぼうで、裸…。顔の眉間のあたりが茶色がかっていて、草鞋(わらじ)を履いていました。歩いている人が珍しいらしくモッコを脇へ置き、茫然と、二、三人が当方を見ていました」(地域誌「はまなす」創刊号、1994年、一部省略)=表記は原文のまま、一部の読みはかっこで補った。引用については以下も同じ扱いとした。
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Source : 国内 – Yahoo!ニュース