海軍通信兵だった山形県高畠町の斎藤誠さん(100)は、朝鮮半島に向かう途中の九州で玉音放送を聞いた。正しい戦況は伝わっておらず、最後まで勝つと信じていたという。
戦火の中で青春を過ごした人たちは、百歳前後になろうとしています。その体験をいま、書き残しておきたい。戦後77年の夏、あらためて耳を傾けました。
二十歳で徴兵検査を受け、舞鶴海兵団(京都府)に入団。横須賀海軍通信学校(神奈川県)に合格し、戦時中のため本来は2年間の教育を1年間に詰め込む猛勉強の日々でした。トン・ツーのモールス信号、暗号を使った電報の送受信ですね。傍受したアメリカの暗号を解読する兵隊もいました。
舞鶴航空隊と防備隊を経て、新しい駆潜特務艇に設備を付ける任務に就きました。磁気・電波探知機で敵の潜水艦の位置をさぐる船で、海軍工廠(こうしょう)の職工さんに「ここに電信機を付けて」などと指示していました。
船が完成すると乗組員になりました。「台湾沖海戦に向かう」と聞き、もう最後かと覚悟しました。ところが突然、ほかの部隊の兵隊が乗ることになり、私を含めて10人ほどが下船。九死に一生を得ました。聞くところでは、船はその後、やられました。
その後、藤沢(神奈川県)で高等科練習生として航空無線整備教育を受けました。1945年3月、藤沢上空をものすごい数のアメリカの飛行機が行き交い、東京方面で炎や煙が上がりました。
東京大空襲です。無数の焼夷…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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