福島で生まれ千葉で育った最首悟さん(86)は、小学校を9年かけて卒業した。ぜんそくのためだったが、「3年半ほど全く学校に行かず、不登校の面もあった」という。だが「生きていくうえで必要な3年半でした」と振り返る。1959年、東大に入学した時は22歳だった。
翌60年5月、日米新安保条約が衆議院で強行採決されると、「日本が米国の戦争に巻き込まれる」などとして反対運動が全国的に広がった。
6月15日、最首さんは国会に突入するデモ隊の中にいた。「ものすごい混乱。倒れたらおしまいの状況でした」。後日、すぐ近くにいた女子学生が警官隊との衝突に巻き込まれて死亡したと聞いた。同じ東大生の樺美智子さんだった。
最首さんはその後、大学院に進んで動物学を専攻した。ウナギの生態を調べるため、何匹も何匹も重さを量ったという。
ベトナム戦争が激化していた時代。66年に同じ大学院生の山本義隆さんらと「東大ベトナム反戦会議」をつくった。67年には東大教養学部の助手になり、研究者の道を歩み始めた。
68年、医学部から東大闘争が燃え広がった。2月に医学部生らと医局員の衝突事件が起き、医学部長は3月、「医局を占拠し個人の自由を奪った」などの理由で学生ら17人の処分を発表した。だが、そのうち1人は現場にいなかったことが判明。学生たちの怒りは強まり、大学のあり方を問う全学的な運動となる。
その夏、東大全共闘が結成され、山本さんが議長に就いた。最首さんは助手共闘に加わった。将来を考えて名前を隠すメンバーが多いなか、顔を出して「スポークスマン」の役割を担った。後に共著で「運動そのものが自己否定的であった」と記した。東大で学問を続けてきた自身を見つめ直さざるを得なかった。
助手共闘は8月、「学生不在…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル