極限の「餓島」で骨と皮に 部下たちの名前ただ記録した

 餓島(がとう)――。圧倒的な米軍の物量に対し、日本軍が多くの餓死者を出したことからこう呼ばれた島がある。

 福井県鯖江市の橋本(旧姓・加藤)長生(ちょうせい)さん(99)を中隊長とする約130人の歩兵第228連隊第四中隊は、弾薬も食料もほとんどない中、2カ月間陣地を守り、大半が命を落とした。

 橋本さんは足を悪くする数年前まで毎年、第四中隊の兵士たちの出身地、愛知県と大阪府の護国神社で参拝を続けてきた。「おう、今年も来たぞ」。声をかける相手は、日本から5千キロ以上離れたソロモン諸島ガダルカナル島で命を落とした、かつての部下たちだ。

 大本営の考えが甘すぎた。陸軍士官学校を出た我々も同じ。たくさん死なせてしまって申し訳ない。弔うのは自分の役目だ。

 1942年の暮れごろ。ガダルカナル島のうっそうとしたジャングルの樹木は、米軍の絶え間ない砲撃でなぎ払われた。太い木の根本がわずかに残るだけの焼け野原が広がっていた。

 飢え、痩せこけた部下の兵士たちが砲撃や病気で連日命を落としていく。今も目に焼き付く光景がある。

 死んだ途端に骨と皮、というと失礼だけど。ぱたんと倒れると靴と服とがぺしゃんこで、かすかに臭いがするだけ。それほどやせ衰えていた。

 それまで戦場で見てきた死体は鼻をつまんでも我慢できないほどの強烈な臭いがあった。ところが骨と皮同然の兵士の体は違っていた。

 当時22歳の橋本さんが率いた第四中隊は11月上旬に上陸後、ジャングルで米軍に遭遇。両軍は50~70メートルほどの距離に陣地を構え、戦闘を繰り返した。任務は「増援が来るまで陣地を死守せよ」。

食料も水もない中で攻撃にさらされ、部下は次々と死んでいきます。のたれ死にか、突撃か。そんな考えが、橋本さんの中でせめぎ合います。

 香港や南方で勝ち戦ばかりやっ…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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