昨春、東大入学式での上野千鶴子さんの祝辞が話題になった。東大入学者の女性比率が2割の壁を越えていないことや、東大男子と他大学の女子だけで構成されるサークルがあることなどを列挙して、性差別が温存されていると指摘した。
樺(かんば)美智子が東大に入学した1957年はどうだったのか。入学者の女性比率はわずか3・1%。将来を期待されていいはずの彼女たちについて、東大文学部学生掛の尾崎盛光(のちに文学部事務長)が『週刊東京大学新聞』(58年9月17日)に「東大花嫁学校論」を寄稿している。趣旨を要約すれば次のようである。
これからは国際社会で活躍する外交官、学者、音楽家などの夫人の需要が増える。こうした大型ホステス向きの夫人を養成できる花嫁学校はどこにもない。東大女子学生諸君はすべからく「わたしは日本最高の花嫁学校にいる」という誇りを持つべきだ―。
こんな女性観がまかり通っていた時代、この根深い性差別を、樺は社会主義やマルクス主義に拠(よ)って解決しようとした。そして前衛党を名乗る政治集団、共産主義者同盟(ブント)に参加した。だが、ほとんど結成メンバーのような立場でありながら、与えられた役割はガリ切りや同盟費の集金といった雑務ばかりだった。
ガリ切りとは「ロウ紙」と呼ばれる原紙に、鉄筆でガリガリと文字を書き込む作業で、その部分だけにインクが入って多くの紙に印刷できる。ビラ作りなどには不可欠の、しかし、恐ろしく根気のいる作業だ。樺はいつもガリ切りをしていたと、周囲は証言する。
支配するのは男、手足になって働くのは女という構図のなかで、組織に忠実であろうとして消耗した。性別役割分業を批判してウーマンリブが声を挙げるのは10年後である。リブには安保世代も少なからずいる。彼女の願いが受け継がれたのだと思いたい。
安保闘争を主導した国民会議も、報じるメディアも、全学連の行動に否定的だったが、樺の死によって評価が一変する。死の3日後の6月18日、東大で「樺美智子さんの死を悼む合同慰霊祭」が全学を挙げて行われ、教職員と学生約6千人が本郷から国会まで喪章を付けてデモ行進した。23日と24日には日比谷公会堂で全学連葬と国民会議主催の「国民葬」が続けて行われた。
【関連記事】
Source : 国内 – Yahoo!ニュース