1575年5月に織田・徳川連合軍と武田軍が戦った「長篠・設楽原の戦い」。NHK大河ドラマ「どうする家康」でも間もなく描かれる、徳川家康にとっては節目の合戦だ。その合戦跡にたつ愛知県新城市の市設楽原歴史資料館には、周辺で見つかった鉄砲玉が17個収蔵されている。うち3個は徳川軍が自ら調達した鉛でつくったものとみられ、調べていくと家康と信長の力関係が透けて見えるという。
資料館では収蔵品展「しんしろ~家康紀行~」が7月16日まで開かれている。展示されている3個はいずれも発見者の名前にちなんでいる。「本田玉」は1991年、「熊谷玉」は97年と2001年にいずれも敷地内で見つかった。
同館の湯浅大司館長(53)らが21年、これらの鉄砲玉の原料となった鉛の成分を分析。この3個は、家康の時代に鉛などの鉱石を産出していた新城市内の鉱山のものと成分が一致したという。
鉱山は同市睦平(むつだいら)の「鉛(かな)山」で、家康が大切に管理するよう命じていたことが古文書に残っている。
湯浅館長は、さらにこの3個が徳川軍のものとする根拠を示す。
玉が落ちていた場所だ。資料館の敷地には武田軍が布陣していた。3個は資料館背後の斜面や、斜面に近い場所で見つかっている。川を挟んだ先には徳川軍の陣地があったとされる。湯浅館長は「徳川方から発射された可能性が非常に高い」とみる。
また、設楽原では、外国産の鉛と成分が一致する玉も3個見つかった。タイ産が2個、中国産が1個。湯浅館長によると、戦国時代には外国産の鉛を入手できるのは大阪・堺を押さえていた織田信長ぐらいで、玉は信長が家康に譲ったものという見方もできる。
そうなると、家康は信長から外国産の鉄砲玉を譲られながら、自身が管理する鉱山の鉛も使っていたことになる。それはなぜか。
本来、鉄砲や弓矢は自前で用意するもの。湯浅館長は「信長と家康は同盟関係にあったが、家康はできるだけ自前で調達するルートを作っていたのでは」と推測する。
玉を撃つには火薬が不可欠だが、当時は国内ではほとんど製造されていなかったとされる。火薬も南蛮貿易で堺からで、信長の助けがなければ、家康も調達ができなかったと、湯浅館長はみている。「火薬を押さえていた信長は、鉄砲に関する家康の軍事力をコントロールしていたと思う。だから、家康が鉱山を持ち、鉄砲玉の原料となる鉛を自前で調達しようとしたことも許したのではないか」(戸村登)
織田・徳川軍の勝因は火薬の量?
織田・徳川連合軍が武田軍を破った勝因は、馬防柵や鉄砲の数の差だけではなかったようだ。
織田・徳川連合軍が使った鉄砲は3千丁、武田軍は500~1千丁といわれる。その差は圧倒的だが、新城市設楽原歴史資料館の湯浅大司館長(53)は「鉄砲の数よりは、玉の数と火薬の量が大きな問題になってくる。いかにして鉄砲玉と火薬を用意するかが、この戦いの勝敗をわける、大きなポイントだった。それは、家康がどうやって鉛を確保するかを非常に重視していたことにつながる」と話す。
当時、全国的に鉛は供給が逼…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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