日本で「外国人」とはどのような存在として見えているのだろうか。訪日外国人やインバウンドという言葉をニュースでよく見聞きするようになった。多くの人が外国人と聞いてまず思い浮かぶのは、仕事や観光で日本以外の国や地域から来た人びとのことかもしれない。
一方でわたしの場合は、日本で生まれて暮らす外国人である。幼少期に通っていたピアノ教室では「リーちゃん」と呼ばれていた。わたしは気に入っていたが、他の友人たちはみな下の名前で呼ばれていた。大人になる過程で「日本語がお上手ですね」という言葉をかけられたことは一度や二度ではない。
現在は在留カード・特別永住者証明書となった旧外国人登録証明書には「Certificate of Alien Registration」という英語表記が当てられていた。同じ境遇の友人たちと「エイリアン(宇宙人・異邦人)のカードだ」とふざけたこともある。
いまだに住まいを借りるときには、誰か日本人の保証人を立てて欲しいと告げられることがある。それと同時に「日本語がお上手なので安心します」と言われて複雑な気持ちになったりもする。
自治体の窓口で、各種手続きをする際には少し身構える。初対面の相手が「外国人の方の場合……」から始まる説明をすると、相手がわたし自身よりもわたしのことに関して詳しいような雰囲気が漂い、不思議な感覚におそわれる。
ある日の授業で見せた映像では、東日本大震災時に救助を待つ女性が、周りがみな日本人という状況のなかで「救助が来ても、一緒に連れて行ってもらえないと考えた」と語っていた。国籍や民族の違いが、災害時に不安や恐怖を生み出すことに驚く学生もいた。
戦後の日本において、「外国人」という言葉には、さまざまな感覚や価値観が関連付けられてきた。朝鮮戦争や冷戦時代の影響で、特定の国や地域に対する偏見や差別が、出入国管理の政策に反映された。また「不法滞在」「不法就労」など在留資格の有無をもって違法性を強調するようなイメージや、労働力としての「外国人労働者」といった認識も定着した。
歴史的につくられてきた「外…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル