「“お前は家の中で避難の準備をしろ“。あの日、最後に聞いた父の声がまだ頭から離れません。平成30年7月6日、忘れられないあの災害から1年。今も雨が降る度に、あの光景が浮かんできます」。
大切な家族も、自慢の棚田も、何もかも流されてしまうことを誰が想像できただろうか。西日本豪雨で土砂に襲われた小さな集落の1年を見つめた。
■「お父さんが出てきそうなんですよね、“おかえり“って」
西日本豪雨での広島県での犠牲者は130人を超え、いまだに行方がわからない人もいる。呉市安浦町の山間にある、24世帯58人が暮らしていた市原地区でも、土砂崩れに襲われて3人の命が奪われた。
豪雨から2週間が経った頃、かろうじて道が通れるようになった集落で、私たちは高取久美子さんと出会った。災害当日の午後8時半ごろ、自宅で久美子さんと2人だった父親の良治さんは、大雨の中、倉庫の近くで土のうを積む作業をしていた。
「私が(自宅の)中で避難の準備をしていて、お父さんは外で避難の準備をしてくれていたんですけど、パッと電気が消えて。ただの停電だと思っていたが、窓の外を見てみたら目の前まで土砂が来ていた」。
久美子さんが撮影した動画には、道路が寸断され、集落は孤立している様子が収められている。久美子さんたちは停電した自宅で2晩を過ごしたあと、ヘリコプターで救助された。外で作業をしていたはずの良治さんは4日後、遺体で見つかった。
「倉庫に入ってたら無事だったんだなと思うんですけど…。お父さんが見つかったところに、まだ1回も行ってないんです。行ってしまうと、お父さんが亡くなってしまったことを認めざるを得ないというか…」。
2週間に一度のペースで自宅に戻る久美子さん。部屋の中で、今も当時のままにしているところがある「これがお父さんの脱ぎっぱなしの部屋着です。あの日のまま…お父さんが出てきそうなんですよね、“おかえり“って」。
胸に浮かぶのは、明るい父親の姿。孫がインフルエンザにかかった時に撮った動画には、「笑ってみ、笑ってみ。笑ったら治るんじゃけぇのぉ」と明るく振る舞う良治さんの姿が収められている。「笑ったら元気になるって。前向きな父だったんでね。ちょっとゆっくりになっちゃうかもしれないですけど、しっかり前を向いていこうかなと思ってます」。
久美子さんと出会った日、私たちは自治会長の中村正美さんにも思いを聞いていた。「実はここ全部ぼくの田んぼだったんですけど、全部なくなったので。やりたい農業ができなくなった」。
田んぼの7割が被害を受け市原地区。災害は、棚田が広がる景色が自慢だった人々の生活や生きがいも奪おうとしていたのだ。良治さんもそのひとりだった。
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Source : 国内 – Yahoo!ニュース
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