米国人写真家ユージン・スミスが水俣でカメラを向けた子どもたちは、ユージンの帰国後も自らの人生を懸命に生きてきた。歩けなくても夢を追い、公害の現実を伝える。命とは何か、生きるとは何か、身をもって次の世代に示し続けてきた。
「あっ、ユージン……とても懐かしい」
9月11日、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん(65)は、熊本県水俣市の隣町にあるつなぎ美術館(同県津奈木町)で始まったユージン・スミスらの作品展を訪れた。
写真の中に10代だった自分がいる。ユージンらが写った作品もあった。車いすから見上げた。車いすを押すのは、ユージンと水俣に住み、患者を撮ったアイリーン・美緒子・スミスさん(71)。しのぶさんとの付き合いは、水俣で撮影を始めた1971年から50年になる。
当時、原因企業チッソの「企業城下町」にあって、孤立した患者家族が初めて同社を訴えた水俣病第1次訴訟(73年に患者側が勝訴)のただ中にあった。しのぶさんの母フジエさんは原告の中心的存在だった。
しのぶさんは15歳。ユージンとアイリーンさんによる写真集「MINAMATA」では、自分の「病」の正体を、中学時代のバス旅行で知ったことがつづられている。先生が「母親が汚染された魚を食べて、生まれつき病気になった」と話すのを聞いてしまい、ある感情がわき起こった。
お母さんが憎らしかったと。私を病気にした。恐ろしか。恐ろしか。恐ろしか、私が考えたこつは。出刃ぼうちょうで殺そうて決めたよ――グサッ――そっで、自分も死のうて……
自ら戦慄(せんりつ)するほどの感情を、必死にこらえた。周囲に年下の自分を可愛がってくれた兄や姉のような患者仲間がいたから。「みんながおったから、ここまで生きてきた」
ぎこちない足どり 会場は静まり返った
別の写真には「水俣病患者」…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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