終戦直後、旧ソ連軍の潜水艦の攻撃を受け、1700人余が犠牲となった三船遭難事件。この夏も事件前日の21日、惨劇の舞台となった北海道留萌市で慰霊祭が営まれる。関係者が次々他界する中、「歴史の継承」に人生をかけた人がいた。戦後75年の節目を迎えることなく、3年前にこの世を去った。その強い思いはともり続けている。
その人は永谷保彦さん。88歳だった。樺太引揚三船遭難遺族会(札幌市)の会長として25年近く慰霊祭を営んできた。会長はいまだ空席で、事務局を務める妻の操さん(79)が慰霊祭を引き継ぐ。「慰霊祭は歴史を風化させないという夫の執念だから」
- 三船遭難
- 1945年8月日朝、樺太(現サハリン)からの引き揚げ船3船が相次いで旧ソ連軍の潜水艦2隻の攻撃を受けた。最初に小笠原丸が増毛沖で撃沈された(死者約640人、生存者約人)。第2号新興丸は留萌沖で攻撃を受け、なんとか留萌港に入港。船内で229人の遺体が確認され、行方不明者を含め400人近くが犠牲になった。さらに泰東丸が小平沖で撃沈され、約780人中667人が亡くなった。しばらく遺体が海岸に漂着し、地元の人たちが供養した。
永谷さんは1928(昭和3)年12月、日本領だった南樺太の大泊(コルサコフ)で生まれた。42年に料亭を営んでいた父親が他界。2年後、茨城県の土浦海軍航空隊(予科練)に入隊した。翌年8月15日、終戦。16歳だった。
母親が待つ樺太に渡れず、札幌…
2種類
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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