首都圏をマグニチュード8クラスの地震が襲い、約10万5千人の死者・行方不明者が出た1923(大正12)年9月1日の関東大震災からあと2年で100年を迎える。震災後は防災を重視した街づくりが進み、堅牢な橋や避難場所を兼ねる公園が造られたが、近年は都心回帰もあって再び人口が集中している。専門家は、次の首都直下地震に備え、復興の歴史をいま一度知るべきだと指摘する。
関東大震災は、近代化した首都圏を襲った初の巨大地震だった。江戸時代の街並みが残っていた木造住宅の密集地が炎に包まれ、橋も焼け落ち、多くの人が逃げ場を失って焼死した。
壊滅的な被害から復興するため、政府が作ったのが「帝都復興計画」だ。名古屋大減災連携研究センターの武村雅之特任教授(地震学・地震工学)は「この計画に基づく事業が今の東京の基盤になった」と話す。
隅田川や神田川に架かる橋は、耐震と耐火が重視され、鋼鉄をふんだんに使って設計された。永代橋や清洲橋などは太平洋戦争の空襲にも耐え、今も現役だ。
延焼を避けるため、区画整理と道路の整備が進み、東京都千代田区から江東区に延びる永代通りなど主な幹線道路が整備された。避難場所になる公園も造られ、今も多くの人が集う隅田、錦糸(きんし)、浜町の3公園はこの時できた。小学校に隣接する52の「復興小公園」は、普段は校庭の延長として使われるように設計されていた。
この時の街づくりでは、首都としての美観や品格が重視されたのも特徴だ。
清洲橋は当時、世界で最も美…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル