朝日新聞社の「報道と人権委員会」(PRC)は1日、朝日新聞が2017年6月に報じた事件記事に対し、捜査当局の見立てを確定的な事実であるかのように報じ、読者に誤った印象を与えるおそれがあったとして、逮捕・起訴された被告側の主張も掲載するよう同社に求める見解をまとめた。
問題になったのは1971年11月に過激派・中核派の学生らが警察官を殺害するなどしたとされる「渋谷暴動事件」で、殺人容疑などで指名手配された大坂正明被告(記事掲載時は容疑者)を巡る記事。大坂被告は46年間の逃亡後、別件で逮捕された後、手配の容疑で警視庁に再逮捕された。
朝日新聞は再逮捕当日の17年6月7日付朝刊社会面(東京本社版)に「警察官の襟元に油/大坂容疑者関与か/渋谷暴動きょう再逮捕」と見出しを付け、「捜査関係者によると、逮捕された女性の活動家が事件直後、『大坂容疑者が被害者の巡査の襟元に油を注ぎ込むのを見た』と供述したという」などと報じた。
大坂被告は起訴されたが一貫して無罪を訴え、公判前の手続きが続いている。
この記事に対して大坂被告の弁護団は昨年7月、被害者の襟元に油が注ぎ込まれたという事実は共犯者とされた者たちの確定判決にも登場しない▽大坂被告の起訴内容にもなく、「記事は虚偽だ」と主張。文中に「捜査関係者によると」と、情報の出所を示しているが、それで免責されるものではないなどとして、記事の撤回などを朝日新聞社に求めた。
しかし同社は拒否したため、弁護団はPRCに改めて申し立てていた。
朝日新聞社は、裁判員裁判の導入を前に09年、捜査情報が確定的事実と受け止められないようにするため、容疑者・被告側の言い分も対等に報じるよう努めることなどを掲げた「指針」をまとめている。弁護団は「今回の記事はこの指針に反する」とも訴えていた。
PRCは記者の取材経緯などを調べたうえで「記事は捜査段階での嫌疑報道として一定の相当性が認められる」とした。
「指針」についてPRCは、弁護団の主張が報じられておらず、見出しも情報の出所が示されていないことなどから、記事は「指針」に沿わないものだったと判断。「弁護団の主張の掲載」とともに、虚偽と申し立てられた内容については今後の審理などを見て、適時、PRCに報告するよう朝日新聞社に求めた。
「指針を周知徹底」
《中村史郎・ゼネラルマネジャー兼東京本社編集局長の話》 PRCの見解を重く受け止めます。改めて事件報道に関する「指針」を社内で周知・徹底するとともに、捜査段階の情報を確定的事実と受け止められないための取材・出稿のあり方を検討します。今後予定されている大坂被告の公判で対等報道を心がけ、よりよい事件報道を目指します。
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〈PRC〉 朝日新聞社と朝日新聞出版の取材・報道で名誉毀損(きそん)などの人権問題が生じた場合に救済を図る。社外委員3人で構成。現在は会田弘継・青山学院大教授、宍戸常寿・東大大学院教授、多谷千香子・法政大名誉教授が務めている。
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〈渋谷暴動〉 1971年11月14日、過激派の学生ら約400人が東京・渋谷駅近くで機動隊と衝突、警察官の1人が死亡、3人が負傷した。警察官殺害の容疑では6人が逮捕された。うち1人の公判が病気治療を理由に停止され、大坂正明被告に対する公訴時効は成立していなかった。確定判決では死亡した警察官に「ガソリンないしは灯油がふりかけられ、数本の火炎瓶が投てきされた」などとされている。
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〈「指針」〉 裁判員制度の導入に際して2009年3月22日付紙面で公表。従来の事件報道が「捜査情報=確定的事実」と受け止められるおそれがあることを反省、情報の出所をできるだけ明らかにすることや、容疑者・被告側の言い分を報じ、対等な報道を心がけることなどを掲げた。
「捜査関係者の情報は虚偽」
《大坂被告の主任弁護人・西村正治氏の話》 本件記事についてPRCが、朝日新聞社の「指針」に沿っておらず問題がある、と認めたことに感謝する。ただ、PRCが、本件記事が「虚偽」かどうかの判断は「公判の審理や判決をまたざるを得ない」とした点は納得しがたい。
本件記事は、女性活動家が「大坂容疑者が巡査の襟元に油を注ぎ込むのを見た」と供述した、と報じた。検察官から開示された女性活動家8人の調書96通を検証したが、巡査に油をかける場面を目撃したという証言はどこにも出てこない。そもそもこの8人は、火炎瓶が燃え上がる以前の情景を目撃していない。
この事件で起訴された別の被告の裁判の確定記録によると、8人のうち3人が証言しているが、その証言では「油が注がれた」という話は一切出てこない。
開示されたもの以外で、女性活動家による重要な内容の調書が存在することもあり得ない。そのような調書が存在するなら、検察庁が隠すはずがない。大坂被告に不利な証拠を検察官が主張しないはずがないからだ。
従って、「大坂容疑者が巡査の襟元に油を注ぎ込むのを見た」と女性活動家が供述したという事実は存在しない。そのような捜査関係者による情報は完全な虚偽だった。捜査関係者が虚偽の情報を流して、朝日新聞社をあざむいたことがすでに明らかである。
朝日新聞社は、この事実を突きつけて捜査関係者の責任を追及する取材活動を今から直ちに行うべきだ。
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル