漫才を黒澤監督のように 西川きよしが語る澤田隆治さん

 一世を風靡(ふうび)した伝説の漫才コンビ「横山やすし西川きよし」。16日に88歳で亡くなったテレビ・ラジオプロデューサーの澤田隆治(たかはる)さんは、無名時代の西川きよしさんを、ある役で起用した。きよしさんは収録後、澤田さんから励ましの言葉をもらい、それを糧に芸に励んだという。

拡大する2020年、文化功労者に決まって取材に応じた西川きよしさん

 澤田さんが細部にこだわった演出や、漫才への深い愛について、きよしさんが朝日新聞の単独インタビューに応じて語った。お笑い界を代表するベテランは、「澤田さんがいなかったら、今僕はここにいません」と語るなど、何度も声を震わせて思い出を語った。

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 僕は昭和38(1963)年に吉本新喜劇に入団した後、白木みのるさんの付き人をしながら舞台にも立たせてもらう生活を送っていました。白木さんは当時、人気番組「てなもんや三度笠」(朝日放送制作)のレギュラーとして毎週出演していたので、僕も新喜劇が終わった後、大阪市内にある朝日放送の社屋へリハーサルに通っていました。

 放送後、澤田さんは相手が主演の藤田まことさんだろうが白木さんだろうが、ゲストのスターだろうが歯にきぬ着せぬ言葉で指摘をしていました。「本番のためにリハを重ねてきているんです。あの場面で1カメに視線をもらわないと困ります」などと、毎週のようにダメ出しです。

 僕は当時、全くの無名でしたが、澤田さんが信念を持ってコメディー番組に向き合っている姿を見ていました。藤田さんが「すみません」と謝ると、耳にえんぴつを挟んだジャンパー姿の澤田さんは、「来週の放送では、こういうことがないように」と声をかけてお帰りになった。

 ある回で、香川登枝緒先生が手がける脚本で、熊が出没する場面がありました。それを読んだ澤田さんが「熊なぁ……。だれにやらそうかなあ」と話しているんです。しばらくして澤田さんが白木さんに「ベビー(白木さんの愛称)のところの坊やを借りてもいいか?」とおっしゃった。え、僕?と、喜びと不安が一気に膨らみました。

 次の日から毎日、天王寺動物…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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