東京都心から南へ1250キロ先の「基地の島」には、かつて島民たちの素朴で豊かな営みがありました。小笠原諸島最大の島、硫黄島(いおうとう、東京都小笠原村)。戦時中の強制疎開で故郷を離れ、そのまま帰れなくなった島民らの孫世代が、島の記憶をつなげようと取り組んでいます。
「子どもたちが遊んでいるのはセイモ海岸。海岸には人の名前がついてるの。こっちのコウヤマ海岸は、神山さんの家の前を通っていくからね」。硫黄島で生まれ、11歳で疎開した奥山登喜子さん(89)の声が弾む。
島の野球大会でピッチャーとして活躍した父、貯水タンクの上で休憩する祖母。相撲のまわしをつけた男たち……。
机に並べた白黒写真を前に語る奥山さんの言葉を聞き漏らすまいと、西村怜馬さん(40)と羽切朋子さん(46)がノートにペンを走らせる。
西村さんは祖父母が、羽切さんは祖母が硫黄島出身だ。
「戦後は父と一緒に帰島運動にも参加したよ。帰りたかった。どうして今も、自由に行けないのか」。奥山さんがつぶやくと、2人は深くうなずいた。
西村さんは自動車メーカーで研究開発に携わる傍ら、羽切さんらと2018年に「全国硫黄島島民3世の会」を結成し、島の話の聞き取りや写真のデジタルアーカイブ化を進めている。奥山さんとの対面もその一環だった。
奥山さんが島に帰りたいのは、望郷の思いからだけではない。約1200人が暮らした島で、疎開時、15~59歳の男性たちの多くが軍属として残された。島には引き離された家族や友が眠る。奥山さんは兄2人が戦死した。西村さんの祖父母も、羽切さんの祖母も、きょうだいを失った。
幸せな記憶も悲しみも詰まった特別な場所だと、西村さんと羽切さんは聞いて育った。
太平洋戦争末期、島は本土防衛のとりでとなり、日米あわせて約5万人が死傷した。戦後は米国の施政権下に置かれた。1968年の返還後は火山活動が激しく産業の成立条件が厳しいことを理由に「一般住民の定住は困難」と位置づけられた。島民は戻れないまま、自衛隊基地の整備が進んだ。
島民家族ら向けに、東京都と小笠原村はそれぞれ墓参・訪島事業を開催しているが、コロナ禍や土地の隆起などの影響で、20~22年の3年間で上陸できたのは2回だけ。
「実際に島に立ち風土を感じることで、関心は高まるし、学ぶことも多い。訪島機会の少ない厳しい状況だけど、次の世代につなぐのが僕らの役目だ」と西村さんは言う。
芥川賞作家、滝口悠生さん(…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル