能登半島地震から1カ月余。被災地でのボランティアをめぐっては、「自粛ムード」や行政による「統制」の是非が課題となった。だが災害ボランティアの専門家で、いち早く能登に駆けつけた大阪大学大学院の宮本匠准教授は、ボランティアは本来多様なもので、「偏った支援が強み」とも語る。時代とともに変化するボランティアが映し出す現代社会と向き合い方について聞いた。
大阪大学大学院・宮本匠准教授インタビュー
――ボランティアという観点から見た今回の地震の特徴は。
初動の1週間どころか1カ月も、おそらくここまで、一般のボランティアが現地で活動することが制約されているのは、阪神・淡路以来の災害で初めてではないか。そこには「自粛のムード」もあるし、実際に行政からの呼びかけもあった。でも、ここに至るまでの予兆のようなものがなかったかといえば、そうでもなくて……。
――予兆とは?
まず一つは、ボランティア一般に対するネガティブな評価です。損得勘定というか打算的に行動するような考え方が世の中に行き届いてしまって、学生を見ていても損か得かで物事を判断することが多い印象です。他人のためと言いながら、積極的に行動するのは何か自分も得ているものがあるに違いない、にもかかわらずそれを隠しているのだから、何かいかがわしいものではないか、と。就職活動でにわかにボランティアをする人も出てくることも補助線になって、ボランティアに対して「偽善」「怪しい」という印象が強まっているのではないかと感じます。
ボランティアは「自らの意思に基づいて見返りを求めずに誰かを助けること」とされ、阪神・淡路大震災が起こった1995年が「ボランティア元年」とよく説明されます。ただ、人が見返りを求めずに助けることは大昔からあった。だからボランティアの本質は「他人同士」の助け合い、つまり「見ず知らずの人間であっても、困った時には助け合う」ということだと思います。
地縁血縁がどんどん薄れ、他人同士が集まって住む現代社会にとって、ボランティアは非常に大きな課題であり、希望でもありました。
けれど「他者」は、ポジティブに引き出せばボランティアのベクトルになるけれど、ネガティブな部分に着目すると、知らない人間で怖い、危害を加えてくるかもしれない、できれば距離を置きたい、となる。僕はこれを「危機管理のベクトル」と呼んでいますが、日本社会ではこちらのほうが強くなっているように思います。
――なぜでしょうか。
例えば今回、被災地で自動販売機が壊された、という報道がありましたが、そこでも危機管理ベクトルのほうが動いてしまった。当初は「自販機破壊し金銭盗む」という報道でしたが、その後、「避難者の飲料水を確保するため」だったと報じられました。
僕の周りでも、今回の地震で現場に行く必要性を語ると、「被災地に迷惑がかかる」「犯罪者が入ってきて大変だ」という強い反論がありました。
とっぴに思われるかもしれませんが、米国社会に分断をもたらした「トランプ現象」とのつながりも感じます。社会全体で一体何が起きているのか、マスメディアを含め、問題を共有するプラットフォームが失われた結果ではないでしょうか。能登半島地震について「現地の様子はこうだ」「それに対してこういう問題があるのでは」という全体像を皆が共有した上で議論できるような状況がなかった。
「エコーチェンバー」(同種の意見ばかり見聞きして思考が偏る現象)と言われるように、細分化されたSNSの中で見ている状況がそれぞれ違い、アナログの「現場」から切り離される形で、それぞれ分断されたメディア空間の中で、偏った情報が繰り返し反芻(はんすう)され、強まっていった。
分断されたSNS空間ではイチかゼロかという極端なコミュニケーションになりがちです。でも本当は現場ってイチかゼロではなく、その間がある。ボランティアにしてもすごく活躍する人もいれば、迷惑をかけてしまうこともあるかもしれません。
「被害が少なくあってほしい」→集合的否認
もう一つは、社会全体として資源や余裕が少なくなり、一方で災害は頻発するという中で、そもそも災害による被害を見なかったことにしたいという「集合的否認」があるのではないかと思います。特に今回はお正月でしたから、「被害が少なくあってほしい」という思いが、初動の遅れや被害を小さく見積もることを後押ししてしまったのかもしれません。
――当初、石川県は渋滞で物資の輸送や救援に支障が出るなどとして、一般のボランティア活動を控えるよう呼びかけました。首相の現地入りは発生から13日後でした。
極端な言い方かもしれません…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル