炭治郎と禰豆子が向かった「六区」 信仰と娯楽が築いた最大の繁華街

大正時代の浅草・雷門通り(絵はがき)。現在の雷門周辺から西側をのぞむ。左後方は東本願寺。右後方は浅草公園六区の映画街周辺=江戸東京博物館所蔵

 「鬼滅の刃」の主人公である竈門炭治郎が、妹の禰豆子とともに向かった「浅草公園六区」。

 その話の前に、簡単に浅草の歴史を振り返りたい。といっても、縄文時代までさかのぼる。

 東京都台東区浅草――。

 台東区の西部は、「武蔵野台地」の東の端にあたる。

 東京の「山の手」と「下町」の境を縫うように、南北に走る京浜東北線。上野から日暮里をへて王子あたりまで、京浜東北線が崖の脇を走っているのを思い出す人もいるだろう。特に、山手線と並走する日暮里や西日暮里は、駅のホームのすぐそこが崖になっている。

 縄文時代はいまよりはるかに温暖で、海水面は高く、東京の下町は海の底だった。この崖は、縄文時代の海岸線だ。当時は海沿いだった現在の崖の上で、縄文人が暮らしていた。その痕跡である貝塚が、崖の上のあちこちから発掘されている。

 JR上野駅から上野公園に向かうと、そこにも崖がある。崖の上を「上野台」という。上野「台」と、その「東」の低地を合わせた地域――ということで1947(昭和22)年に名付けられたのが「台東区」だ。

 さて。

鬼が出入りする「鬼門」に浅草寺、家康が庇護

大正時代、多くの人でにぎわう浅草仲見世(絵はがき)。関東大震災の前で、れんが造りの建物が並んでいた=江戸東京博物館所蔵

 隅田川の右岸沿いの低地に位置する台東区浅草は、江戸初期から戦後まで300年以上、国内最大の繁華街であり続けた。その浅草の隆盛の起点をつくったのは、徳川家康だ。

 いまいる場所から北東(丑寅…

この記事は有料会員記事です。残り1763文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

Japonologie:
Leave a Comment