終戦後の東京。孤児となった当時12歳の少女が、空襲で焼け落ちた自宅の跡地にひとりぼっちで座り込んでいた。エッセイストの海老名香葉子さん(89)だ。
現在の東京都墨田区にあった生家は、江戸時代から続く釣りざお職人の家だった。1945年3月10日の東京大空襲で、父母と2人の兄、弟、祖母の6人の命が奪われた。
焼け残ったのは入り口の石段だけだった。焼け跡を掘ると、家族の茶わんや布団の切れ端など、懐かしい品が出てきた。
海老名さんは戦後、都内のおば夫婦のところに身を寄せていた。
住まいは周囲をトタンで囲ったバラック小屋だった。
近くの井戸から水を運び、水がめにためておくのが海老名さんの日課になった。
極度の窮乏のなかで、やさしかったはずのおばの態度は一変していた。
ときには怒鳴られ、モノを投げつけられた。「お前なんか死んでくれればよかった」と罵声を浴びたことも、一度や二度ではなかった。
「自分は『余計な子』なんだから」と心を殺し、ひたすら耐えた。
はやく父ちゃん母ちゃんのいるところに行きたい――。時折そんな悲痛な思いに突き動かされ、自宅の焼け跡に向かった。
「私の家、私の家」とつぶやきながら、歩いた。
「父ちゃん、母ちゃん、お空の上にいるなら、私も一緒に連れていって」
心の中で叫んで、焼け跡で泣いた。死んでもここを離れたくないと思った。
空腹でふらふらになると、ハコベやアカザなどの野草もつんで、食べた。
でこぼこの鍋を拾って、壊れた水道管からもれていた水をいれた。煙が立っている場所に行って「火をください」と頼み、木ぎれに火をつけてお湯をわかした。そこにヤミ市で買ったふすま粉をいれ、野草を煮た。味はなにもなかった。
冷え込みが厳しかったある日のことだ。自宅の石段に座って凍えていた。
「こんなところにいたら凍え死んじゃうよ」
復員兵らしき男性が声をかけ…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル