八百屋の男性が、たどたどしい英語で話しかけてくる。「ディス トマト イズ ベリーナイス」。比嘉マリアさん(53)はさらりと返した。「まーさぎさーぬトマトやいびーんやーたい(おいしそうなトマトですね)」
4月、沖縄県沖縄市の産直市場。周囲は少し驚いた顔をした。「アメリカ人」が、沖縄の言葉を話している。いつものことだ。
これまで何度も、顔をのぞきこまれ、「英語は話せないの?」と聞かれてきた。
話せないよ。だって、私は、うちなーんちゅ(沖縄の人)だから。
自信を持って、こう答えられるようになるまで、長い時間がかかった。幼い頃から、ずっと悩み続けてきたこと。
私は誰なのか。
◇
ベトナム戦争下、米軍キャンプ・シュワブ(現在の名護市など)に駐留する米兵の父と、沖縄戦を生き抜いた母の間に生まれた。父のリーという名前にちなみ「リーエ」と名づけられた。
しかし、米国に婚約者がいたという父は、母の出産を受け入れず、生まれる前に帰国した、と聞いた。
ブラウンの瞳と髪、高い鼻。自身の容姿に苦しんだ。
沖縄戦の戦没者らを悼む6月23日の「慰霊の日」が近づくと、気持ちが沈んだ。小学生の平和学習で使われるのは、火炎放射器を持つ米兵の写真。「アメリカー(米国人)は基地に帰れ」と同級生から石を投げられ、ランドセルはぼろぼろにされた。
自分はアメリカ人ではないし、米軍基地にも入れない。
それなのに、皆と一緒じゃない。
ずっと親を恨んでいた。
17歳のころ、母が探し出した父の居場所へ一人向かった。
なぜ私を拒み、家族を置いて…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル