朝、窓を開けると鳥のさえずりが聞こえ、夜は満天の星に包まれる。
集落を囲む山々は、春に淡いピンクのヤマザクラで彩られ、冬には雪化粧をまとう。
人口1500人ほどと小さく、住民らが家族のように支え合って生きてきた。アイドルグループの「TOKIO」がテレビ番組の企画で住み込み、農業体験をした「DASH村」の舞台にもなった。
紺野リシ子さんは、この津島で育った。
12年前、83歳だったあの日まで、この地で生涯を終えるつもりだった。
それなのに――。
故郷から引き離され、再び帰れる日はこなかった。
突然失われた日常
リシ子さんは1927年生まれ。同郷の広衛(ひろえ)さんとの結婚を機に小学校の教師をやめ、4人の子宝に恵まれた。
よく笑う明るい性格で、趣味は短歌を詠むこと。
家には毎日のように近所の友人が訪れ、茶飲み話で盛り上がった。
周囲からは「リシちゃん」と呼ばれ、家庭の相談を持ちかけられるなど頼られた。
夫に先立たれてからはひとり暮らしで、家事と畑仕事をひとりでこなした。
12年前のあの日も、当時83歳だったリシ子さんは津島にいた。
山も地球も爆発するかと思うほどの揺れと、聞いたこともない大きな地鳴り。
身の危険を感じ、家の前の木にしがみついて時が過ぎるのを待った。
町内の最大震度は6強。人生を大きく狂わす悲劇は、その直後に訪れた。
地震の翌日、さらに2日後と、南東に30キロ離れた東京電力福島第一原発の1、3号機で相次いで水素爆発が発生。浪江町は2011年3月15日、国の避難指示を待たずに、独自で全町民を避難させると決めた。
「原発事故で避難してきた」 病院の待合室で明かすと…
リシ子さんは薬も持たず、着の身着のままで避難。福島市の長男宅を経て、東京都内の長女のマンションに身を寄せた。だが、急な環境の変化に持病のリウマチの症状が悪化し、精神的にも不安定になった。
「早く福島に帰りたい」。浪江町の職員で、福島に残っていた三男の則夫さん(68)の携帯に何度も電話するようになった。
5月、遠く離れた故郷を思い、日記帳に短歌をしたためた。
《東京の 広き大空 眺めつつ 早く帰りたし 福島の里に》
津島に帰れる日はいつか。この先の生活はどうなるのか。
不安でいっぱいの心を、避難者への偏見がさらに苦しめた。
リウマチの薬をもらうために行った病院の待合室。同年代の女性と話し込んだ。
「どこから来たの」
「福島の浪江町。原発事故で避難してきた」
そう言うと、親しげに話していた女性がスッと席を立ち、いなくなった。
原発事故で避難してきた人の近くにいたら、自分も被曝(ひばく)すると恐れたのだろうか。
「悲しかった。がっかりしちゃった」と則夫さんにこぼした。
「ほがらかな気持ちがどこかへ逃げていった」
7月、日記帳に記した言葉には、家族への気遣いと望郷の念が交錯した。
《東京に来て四カ月以上もお世話になりました。
御迷わくをかけて、すまない気持ちでいっぱいです。
毎日福島に帰ることだけ考へて来ました》
《津島の人達はどこにいるのだろうか。
早く皆さんに会いたいです。
会って大きな声で話し笑い合いたいです。
私のあのほがらかな気持ちがどこかへ逃げて行った様な気分です》
《福島を はなれて早や四月 思いて遠し 山里の道》
仮設住宅に移ったが… 「孤島に老婆 一人きり」
ふるさとを追われ、半年が経とうとしていた2011年8月29日。
リシ子さんは、福島県本宮市に完成した浪江町民向けの仮設住宅に居を移した。
入居ができるようになった、初日のことだった。
市内に避難していた三男の則夫さんは、震災後初めて母の姿を見た。
「どうしちゃったの」
震災前のふっくらとした面影はなく、別人のようにやせていた。
リシ子さんは東京で下痢が続き、震災当時54キロあった体重が10キロも減っていた。
医師に診てもらうと、下痢の原因はストレスだと言われた。
仮設住宅への入居は、悲願の福島への帰還だった。
ところが、工業団地の一角に立つ約100戸の仮設住宅に、顔なじみの友人はいなかった。
《仮設のへやは 四畳半 孤島に 老婆 一人きり》
《故郷(ふるさと)は 遠くになりて 悲しくて 原発にくし 涙ながるる》
《仲良しの 友の姿を 思い出し 元気で居てと 涙流るる》
彼岸に自宅へ 「我がふる里は かげもなく」
仮設住宅で暮らす日々のなかで、数少ない楽しみのひとつが津島に行くことだった。
津島は、放射線量が避難基準の2・5倍(年50ミリシーベルト)を超えた帰還困難区域に指定され、避難解除のめどもたたなかったが、住民が手続きをすれば、立ち入ることができた。
則夫さんの車に乗せてもらい、彼岸やお盆などに夫の墓参りや自宅に行った。
《四年目の 春の彼岸に ふる里に 帰り墓を お参りす》
一方で、帰りたくても帰れない現実、避難している間に変わりゆくふるさとの姿を、直視する時間でもあった。
《放射能 色は見えず 晴れ渡る 青空》
《枯れ草しげる 我がふる里は 見るかげもなく悲しき》
復興住宅で大けが 故郷にはもう「行けねえ」
「ばぁちゃん、大変だぞ」
2017年4月、則夫さんの携帯に妻から電話があった。
前年春にリシ子さんが移った戸建ての復興住宅に駆けつけると、玄関は血の海だった。
「ごめんなあ」。頭から血を流しているリシ子さんが言った。
則夫さんは「ごめんじゃねえべ」と返した。
使っていた手押し車の進む速さに足が追いつかず、頭から転げ落ちてしまっていた。
車で病院に連れて行き、そのまま入院。鎖骨も折れていた。
約2カ月後に退院したが、体力が落ちて歩行が難しくなり、車いす生活を余儀なくされた。
原発事故で避難を強いられて6年余り。身も心も、孤独な避難生活で弱っていた。
不眠症に悩み続け、体重は震災前から20キロ近く落ちた。
「隣の人が家に入ってきた」「誰かが見ている」。幻聴や幻覚の症状も出るようになった。
あれだけ津島に行くのを楽しみにしていたのに、声をかけても「行けねえ」と断るようになった。
毎日、夕飯をつくりに通っていた則夫さんはあるとき、白い顔で口をぽかんと開けて眠っているリシ子さんの姿を見て、思った。
「おふくろは、もう長くないのかな」
18年1月、リシ子さんは日記帳に願いをつづった。
《今年は体を大事にして生活したいと思います。神様お守り下さいませ。心よりお願い致します。心静かに生活したいです。》
部屋に残されていた菓子箱
18年10月、意識がもうろうとして復興住宅で動けなくなっていたリシ子さんの姿を、訪問介護のヘルパーが見つけた。すぐに病院に入院。心不全を起こしていた。
約3週間後の11月18日、則夫さんたちに見守られながら、この世を去った。
リシ子さんが暮らしていた復興住宅を長女が整理していると、ひとつの菓子箱が見つかった。中を開けると、原発事故による避難生活の間、リシ子さんが短歌や日々の思いを書きとめたノートやメモ帳、チラシなど多くの紙片が入っていた。
避難直後から短歌を書き続けた日記帳の記述は、亡くなる7カ月前で終わっていた。
《なつかしき 津島の山の ふる里よ 生きて帰れず 七年過ぎ行く》
則夫さんは、そのなかからひとつの短歌を選び、リシ子さんの通夜で紹介した。
《春が来て 心和ます 桜花 命をかけて 咲きて 散り行く》
原発事故前はふるさとで充実した日々を送っていた母。避難後も帰郷を願い、信じ続けたが、かなわなかった。
そんな自らの命を、散りゆく桜に重ねたのだろうか。そう思うと、胸が痛んだ。
福島の災害関連死2335人 「避難で理不尽な最期、知って」
翌年2月、リシ子さんの避難開始から亡くなるまでの体調悪化や治療の経過などをまとめ、浪江町に「災害関連死」として申請した。数カ月後に認定された。
原発事故による避難生活で出てきた不眠症や幻聴・幻覚。避難する必要がなければ、もっと長く元気に生きられたのではないか。その悔しさが、申請に踏み切った理由だった。
避難生活中に母が詠んだ短歌を通じて、原発事故の避難の現実を多くの人に知ってもらえたら――。そう思い、則夫さんは短歌を本にまとめる作業を続けている。
だが、ノートやメモをめくると、母の顔が浮かんできて、涙がこぼれそうになる。
今年1月、自民党の麻生太郎副総裁が自身の後援会の会合で「原子力発電所で死亡事故が起きた例がどれくらいあるのか調べてみたが、ゼロだ」と発言したと知り、怒りがこみ上げた。
リシ子さんのように原発事故の避難に伴うストレスなどで死期を早めたり、避難中に体調を崩したりして亡くなったりして、「災害関連死」として福島県内で認められた人は2335人に上る。東日本大震災の地震や津波で亡くなった「直接死」(1605人)の約1・5倍だ。
岩手県(470人)と宮城県(930人)の関連死と比べても、突出して多い。
直近5年間で亡くなり、関連死と認められた人も33人いる。
福島では、原発事故による避難指示が12市町村に広がり、16万人超の県民が避難を強いられた。当時は原発事故による大規模な避難が想定されておらず、病院の入院患者らが避難中に亡くなる悲劇もあった。そのうえ、いまも7市町村で避難指示が続き、長期化する避難生活が心身に負担をかけているとみられる。
則夫さんは言う。「原発事故でふるさとを離れ、避難生活で苦しみながら、帰れないまま理不尽な最期を迎えた人がたくさんいる。その現実を、多くの人に知ってもらいたい」(福地慶太郎)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル