最期は自分の名前で……。半世紀近く偽名で逃げ続けた容疑者が、その死の間際に名乗り出た。社会にとって、個人にとって、名前はどのような意味を持っているのか。文化人類学者の出口顯(あきら)さんに聞いた。
指名手配されながら、半世紀近くも偽名を使って警察から逃げ続けた容疑者が、「最期は桐島聡で死にたい」と語り、名乗り出たと報じられました。本人が亡くなったので、その理由や真意を本人に尋ねることもできません。
案外もろかった「国家による管理」
制度面から考えると、日本では、戸籍に名前が記録されることにより、国民として登録、管理されていますが、今回の事件ではDNA型鑑定が本人だと特定するための一つの柱となったようです。もし関係者が検査を拒否していたら、特定するのは簡単ではなかったでしょう。
普通なら土地や家族の結びつきが個人のアイデンティティーを担保してくれるはずなのに、身内やかつての仲間との連絡が途絶えていたという「桐島聡」にはそれがなかった。一方、偽名である「内田洋」が誰であるかは、職場や友人関係によって担保されていましたが、「内田」と「桐島」をつなぐのは、本人の自己申告によらざるをえなかった。しかも、それを証明できるものはほとんどなく、DNA型鑑定に頼ったわけです。登録された本名は遺伝子に勝てなかったようにも見えます。その意味で、国家による管理は、案外もろいということを示したとも言えます。
しかし、他方で、名前は国家による制度の問題というだけではありません。
名前は「親からの贈り物」と…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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