畳にテント、避難場所4カ所渡り歩いた 津波避難のその後「教訓に」

 能登半島地震で地震と津波の被害を受けた珠洲市飯田町。地区の集会所では60代男性が畳の上にテントを張り、避難生活を送っている。

 避難するのはこの場所で4カ所。避難場所を転々としたという男性は、「どこにおればよかったのか。雪の中を移動するのはもう嫌やわ」と声を落とした。

 1月1日、海沿いに立つ友人宅で食事をしていた時、大きな揺れに襲われた。

 屋外へ出ると、友人宅前にある高さ約2メートルの防波堤を、白い波が越えてくるのが見えた。

 「ぜったい津波やわ」

 近くで動けずにいた80代女性の手を取り、友人宅近くの兄の家へあわてて逃げた。2階の窓から外をのぞくと、濁流が海沿いの家々を破壊し、車が流されていく様子が見えた。

 津波が収まった後、500メートルほど離れた病院へ避難した。津波の時は、この病院へ逃げることになっていた。病院には他の地区の住民も一気に押し寄せ混乱していた。

 自宅は津波に襲われ、地震で傾いたため、帰る場所はなかった。

 その日は待合室のソファで眠った。

 「ここは避難場所ではありません……」

 2晩を過ごした後、病院関係者にそう告げられ、市の指定避難所へ行くよう促された。

 「まさか」

 男性は驚いた。その病院は、昨年9月に行った津波を想定した地区の避難訓練でも住民たちの集合場所になっていたはず。

 しかし、その病院は津波などの際に一時的に避難する「指定緊急避難場所」で、一定期間避難生活を送ることができる「指定避難所」ではなかった。そのため、他の人も含め、病院から別の避難場所へ移動するしかなかった。

 病院を去った後も、高校、中学と避難場所を渡り歩き、1月中旬に自宅近くの集会所に落ち着いた。

 津波への訓練で逃げ込む先は知っていたが、「避難生活を送る」場所までは頭に無かったという男性。「緊急避難したその後の『生活』も含めて訓練すべきだった」と悔やむ。今後、教訓として地区の避難訓練に生かせればと思っている。(田辺拓也)

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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